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    1 借りぐらしのアリエッティ 6 プレデターズ
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    トイ・ストーリー3 7 告白
    3 踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! 8 必死剣鳥刺し
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    5 エアベンダー 10 それいけ!アンパンマン ブラックノーズと魔法の歌
    借りぐらしのアリエッティ
    スタジオジブリの最新作、『借りぐらしのアリエッティ』が、夏休みに合わせて、予定通りの初登場首位を獲得。先週、先駆けて公開された『トイ・ストーリー3』を、かろうじて上回った。同じく初登場の、シャマラン監督作『エアベンダー』は5位、小栗旬初監督作『シュアリー・サムデイ』は9位という結果に。
    1 Inception 6 Grown Ups
    2
    Despicable Me 7 The Last Airbender
    3 The Sorcerer's Apprentice 8 Predators
    4 The Twilight Saga: Eclipse 9 Knight and Day
    5 Toy Story 3 10 The Karate Kid(2010)
    Inception インセプション
    デザインされた夢の中でのミッションを描く、クリストファー・ノーランのオリジナル作品、"Inception"が、首位好スタート。抜け出せない夢の多層世界の恐怖や、非常に複雑なプロットを、エンターテイメントとして成立させた良作だ。ニコラス・ケイジ主演の"The Sorcerer's Apprentice(『魔法使いの弟子』)"は、初登場3位に留まる。
    1. アリス・イン・ワンダーランド
    2. 母なる証明
    3. ハート・ロッカー
    4. マイケル・ジャクソン THIS IS IT
    5. ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
    6. アバター
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    8. アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン
    9. 崖の上のポニョ
    10. カールじいさんの空飛ぶ家
    充実の映画タイトル、ツタヤディスカス
    インセプション
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    インセプション
    ⇒hychk126
    必死剣鳥刺し
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    必死剣鳥刺し
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    インセプション
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    アリス・イン・ワンダーランド
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    文明が消え去り、住民が消え去り、ライフラインのみが奇妙に残存する、荒廃した友引町。
    およそ何十年、何百年の時が経過したのだろうか、生徒の消えた友引高校の、朽ち果てた木造モルタル三階建ての校舎の大時計には、針も落剥し、その周囲をカモメが旋回している。
    かろうじて生き残った人類は、限られた数名の大人達と、限られた数名の高校生だけだ。彼らは歳をとらず、亡霊のようにそこに生き続け、「友引高校文化祭前日」という毎日を繰り返し続けている。
    全体、こんな世界が存在し得るのだろうか?もし、あるとすればそれは…
    一介の男子高校生、諸星あたるも、生き残りの一人だ。彼は繰り返す終わらぬ日々のために、精神は麻痺し、恍惚とした表情を浮かべ、この廃墟と瓦礫が散在する荒野の中で、廃人同然となり果てている。

    これは、押井守監督作『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』のオープニングのシークエンスだが、奇妙なことに、クリストファー・ノーランの新作、『インセプション』の、老いたサイトウの城を舞台にしたオープニングと、ほとんど同じ意味合いを持った内容となっている。
    何故、これが奇妙に思えるのかというと、これらの作品が、違う筋立てでありながら、夢の世界を描いていく上で、他にも非常に多くの類似点に満ちているからである。
    まるで、夢の世界を描くということに、このような何らかの共通した認識が必要であるとでもいうように。



    先程のオープニングは、どちらも、時系列の順でいえば、終盤のシークエンスであり、その後、時間をさかのぼり、未来の友引高校から過去の友引高校、未来のサイトウの城から過去のサイトウの城へとそれぞれ舞台が変化し、すんなりと時系列を組み換えず進行してゆく。
    シークエンスごとに逆に遡り、複雑に感じられるノーランの『メメント』が、それでも整合性が取れているように感じられる一方で、逆にシンプルであるはずのこれらの作品の冒頭部分が、このような配列になっているのは、奇異に感じられる部分だろう。
    両作品には、エッシャーのモチーフが度々登場する。
    押井守が、『ルパン三世 ルパン対複製人間』の、エッシャーの絵を基にした背景が登場する、ユーモラスなシーンについて、「これでは表面的で意味がない。エッシャーの世界を表現するのであれば、作品の構造そのものをエッシャーのようにしなければ駄目だ」といったようなことを発言しており、それを自分でやったのが『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』なのだという。
    つまりそれは、エッシャーを象徴する「循環する階段」を、時系列の組み換えによって脚本上に成立させようとする試みであり、そしてそれは、そのまま『インセプション』の演出にも当てはまるだろう。
    『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の当時のパンフレットにも、『インセプション』のポスターにも、エッシャーの絵をイメージしただまし絵が描かれているところから、この両作品は、それ自体がエッシャーをモチーフにしているのだとするのは、論拠としてそんなに弱くは無いだろうと思う。

    さて、このように作品を循環・円環状に見せかける、ということは、どのような効果があるのか。
    多くの押井作品や『マトリックス』、『ある日どこかで』、『ラ・ジュテ』のようなタイム・トラベルもの、『赤い影』、『4番目の男』のようなオカルティックな作品でも見られるが、これらに共通するものは、運命論を引き受ける姿勢である。
    入り口の無い、出口も無い、登場人物の行動が、何か大きな流れに支配されたように表現される映画というのは、「運命」がドアをノックする音に、ただ耳をふさいで震えるしかない人間(登場人物)を閉じ込めた檻のようであるし、また、「脚本」に支配された映画内人物をメタフィジックに表現する手段でもあるかもしれない。
    そしてさらに、それは終わることの無い、輪廻転生の恐怖をも示唆し、また、それをフィルムという円環に閉じ込め、一日のうちに何度もリピートするという行為の、奇妙さや不気味さを指摘することにもつながるだろう。

    仏教における、「輪廻転生」とは、悟りをひらき涅槃に至るまで、永遠に生き死にを繰り返さねばならないという概念だ。一番イメージしやすいのは、双六で、円環構造になっているいくつかのマスの中に自分の駒が入ってしまっている状態である。ある指定されたマスに到達しない限り、延々と廻らせられるというあれ。その規模が非常に大きくなったものが、生命の輪なのである。
    気の遠くなりそうな生きるものの大きな奔流と、膨大な時間。しかしながらそこには、「悟り」と「涅槃」という出口、一片の救いがあるように思える。
    『インセプション』の恐怖は、そこに留まらない。
    「涅槃」に到達したものの、実はそこは、さらに大きな、しかも「より安定している」ことで、現実と見紛ってしまうような、さらに大きな円環構造のひとマスに過ぎないというのである。
    今いる世界が夢の中だとして、我々は、何度目覚めれば本物のリアル、本物の涅槃へと到達できるのか。このとてつもなく巨大で終わりの見えない円環のつながりの終わりは結局存在せず、やはりその巨大な連なり自体が、さらに円環状になって、結局、元にいたところに戻ってしまうかもしれないのである。
    この恐怖構造の醸成は、『マトリックス』がこのデカルト的な恐怖に耽溺しすぎず、英雄譚、もしくは救世主伝説としての役割を持ってしまったために感じる不満を乗り越えて、極めて重要な普遍性の獲得に寄与できている。



    さて、私たちをも含めた、この円環世界の中では、その上限が実感できない以上、一時的であっても、そこに存在し、生活を始めなければならないはずだ。
    『インセプション』の世界では、「紛れも無い現実」は存在しない。夢と現実の判断装置である独楽は、これがいつまでも廻り続けようが、途中で倒れようが、さして意味は持たないだろう。
    何故なら、トーテム(夢と現実の目印)を考案した場所が、すでに夢の中であるならば、その上の階層ではそのルールが適用されるはずが無いからだ。
    つまり、ディカプリオ演じる主人公コブがラスト・シークエンスで独楽を回しながら、その挙動をしっかりと確かめないのは、そのことにすでに気づいているからであり、「自意識が存在する場所であればそこは現実」だとする姿勢は、デカルトの存在証明に近いものだと考えられるだろう。
    マリオン・コティヤール演じる、コブの妻が、さらに一階層上で、眠るコブを眺めているのかも知れないのだ。その可能性に、始終脅かされているということが、妻を死に至らしめたかもしれないという悔恨よりもさらにシリアスに重く、コブを神経症に陥らせていたのである。
    しかし、コブの自意識が留まる階層が現実である保障が無いのと同様に、その一階層上ですら現実であるという保障がない以上、もはやコブのいる場所が現実であるかどうかは、むしろ重要な問題ではなく、コブがそこを現実と捉えられれば、そこは現実だと考えるべきなのである。

    『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』には、「夢をあやつり、人々に邪鬼の種を植え込んでは悦にいる悪しき鬼」である、「夢の邪鬼と書いて夢邪鬼」が登場するが、彼は、夢からいつまでも抜け出すことのできなくなった諸星あたるに、こう提案する。
    「夢やからこそ、やり直しがききますのんや。なんべんでも、くり返せますのや。な、こういうの知ってまっか?蝶になった夢を見た男が、目をさまして、果たしてどっちの自分がホンマやろ、もしかしたら、ホンマの自分は蝶が見ている夢の中におるんとちゃうやろか。まあ、夢やら現実やらいうて、しょせん考え方はひとつや。なら、いっそのこと夢の中で面白おかしう暮らした方が、ええのとちゃいまっか?」
    しかし、あたるは、それでも現実に帰還しようとする。そうして彼が目覚めた友引高校は、文化祭当日の朝であった。
    だがここが本当に現実であるといえるのだろうか。ラスト・シークエンスで、「あいつらには進歩とか成長とかいうもんが、まるで無いからな」と、誰かがつぶやく。
    そして作品のタイトルが、やっとこの最後のシークエンスに登場するのだが、それは実は、友引高校にかけられた大看板だったのである。
    ちなみに、ノーランの側は、彼の劇場公開作品に共通している演出とはいえ、作品のタイトルが最後に登場する、という事実も、両作品に共通している点だ。

    少なくとも、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』も、『インセプション』も、もちろん現実の物語では無い。映画という形をした、誰かの夢なのだ。
    だが、私たちは上映後も、その作品構造の地獄を継続することになる。今見た夢が入れ子状になっている以上、今の自分自身が、「映画を観た夢」を見ているのだということを、証明することができないからだ。
    そして、このふたつの作品は、私たちにそういった事実に気づかせるという点で、そして、作品を楽しませるためにこのような要素があるというよりは、このような恐怖を味わわせるために、作品世界を構築し、そしてそのこと自体が狂気を感じさせるという点で、全く同じ役割を担わされたものだといえるだろう。



    『インセプション』が、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』よりもさらに徹底しているのは、夢の世界のディテールの作りこみにおいてである。
    日本では「虚無」と訳された、夢の中の牢獄は、オリジナル版では"limbo(辺獄)"と呼ばれる。
    「辺獄」とは、ダンテの「神曲 地獄篇」にも登場するが、カトリックの、以前の教義に存在した、死後、生前の軽度の過失のために天国に到達できなかった者が、魂の救済を待つ場所の概念で、「煉獄」、「地獄」の手前にあるとされている。
    仏教的な円環構造に加え、月と地球と太陽のスイングバイを思わせるような、さらに大きな構造の円環を描き、さらにそこに、カトリック的世界観、もっといえば、ダンテの「神曲」の、縦に伸びる構造が添加されているのである。
    このことで、『インセプション』の世界観は散漫になるばかりか、より大きな強度を手にしているのが、非常に不思議な部分だ。
    さらに、そこへ時間の概念が加わる。下層へは、「夢の中で夢を見る」ことで到達することができるのだという。
    そして、下層に行けば行くほど、時間が引き延ばされる。下方に数層進むと、数十年そこで生活したとしても、現実世界では数時間しか経過していないという、「逆竜宮城」状態が実現されるのだ。

    このような、病的にも思える情報の過剰さを獲得しているという点において、『インセプション』は、デカルト的問題を表現した映画として、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を乗り越える位置にまで、ようやく映画を到達せしめた。
    実際の多層構造の夢に、このようなはっきりとした物理法則が成り立つのかは分からないし、現実的では無いのかもしれないが、このような複雑すぎるファクターを組み合わせ、大きな矛盾が無く、「スパイ大作戦」や『スティング』のようなグリフティング・エンターテイメントを成立させつつ脚本を完成させるという、気の遠くなる、それでいてバカバカしい偉業を達成し得たのは、やはり『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』と同じく、「終わらない夢の継続」に、観客自身の現実を参加させるという目的のためなのである。
    その根拠は、「夢」の設計が「映画」の制作に酷似するように描かれている点と、エンディングクレジット時に、映画が「夢であること」を表す劇中のテーマ、「水に流して ("Non, je ne regrette rien")」が流れることから明らかだ。

    そうしてそれは、「映画は夢である」というノーランの宣言でもあり、そのことが新たな「映画と観客との関係」を明示し得たという点で、革命的な事件であるということがいえよう。
    このことが、『インセプション』に重大な価値を与えているのである。
    本作品は、さらに夢と現実の恐怖を、多層構造を持ち出すことによって、よりそれを現実のものとしたということで、映画史に刻まれるべきマイルストーンと認識されるべきものになり得たのだと思っている。

    さて、私はそれでも、クリストファー・ノーランの、演出家としての能力を、狭い意味で、未だに凡庸だと判断している。
    『フォロウィング』、『メメント』、『インソムニア』、『バットマン ビギンズ』、『プレステージ』、『ダークナイト』、そして『インセプション』に至るまで、ヴィジュアルセンスやユーモアセンスの点で、ノーランが凡百の映画監督に比べ、優れている部分は少なく、『インセプション』の数々のシーンで明らかなように、演出上のオリジナリティも無い。
    この、女性の体の肉付きにも例えられる、「映画的豊かさ」の欠如のために、ノーラン映画は、貧弱な骨と皮のみの存在に近い印象を受けるのである。
    夢の描写について、ジャン・コクトーの極めてロマンティックな傑作『詩人の血』の唯美的な演出と比べると、哀れにも感じるほどの両者の才能の差が、厳然と存在している。

    だが、それでは例えば『メメント』の、『インセプション』の存在価値が全く無いのかというとそうではない。
    『メメント』や『インセプション』の優れている点は、「複雑で面倒くさい状況を、誰にでも分かりやすいように整理し、まとめ上げている」ということだ。
    今回の『インセプション』も、そこまで夢の描写に具体性を与える必要は、通常無いはずで、もっと抽象的な方が、表面的には「夢らしい」し、観客の理解も容易なはずなのである。
    この、無意味な試みにも感じられがちな、世界のディテールの構築に必要とされたのは、ノーラン個人の病的な執拗さに他ならない。
    「病的に執拗」であるという過剰さが、『インセプション』を、未踏の地へと進ませたのだ。
    その点で、この才能は、新たな、それでいてある意味でユニークなオリジナリティであったということを、認めざるを得なくなるだろう。
    どうであれ、この驚嘆すべき『インセプション』を、紛れも無い傑作だとすることに、少しのためらいも感じない。


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    阪本順治監督の『新・仁義なき戦い。』は、旧作ファンの私にとって、それなりに新しい工夫はいろいろ見えるものの、結果的には失望させられた作品だ。
    その要因はいろいろあるものの、最大のショックは、小指を包丁で切断する、いわゆる「指詰め」のシーンだ。
    豊川悦司演じるヤクザは、鼻歌でもうたいそうな優雅さで、足を重しにして、サクっと自らの小指を、あっけなくスマートに切断してしまうのである。
    賢明な当ブログ読者には言うまでも無いことだと思うが、『仁義なき戦い』での菅原文太の指詰めシーンは、散々怖気づき、それでもやっとのこと切った直後、その指がスポーンとはねて、鶏小屋に紛れ込み、みんなで慌てて探し出そうとするという、驚愕的に面白い展開になっているのだ。こんなアイディアは、ハワード・ホークスにさえ編み出せるかどうか判らない。

    ここで言いたいのは、前述のシーンに代表されるような、豊川悦司の無機質でクールでスマートな佇まいだ。
    陰鬱にも見える鋭い眼光と、意外なほど高くつぶれた声。只者ではない雰囲気と、大きな体格。
    『椿三十郎』の敵役ならまだしも、藤沢周平の善良で実直な主人公像には、だいぶそぐわない。
    それでも、『必死剣鳥刺し』の主人公は、例外的に、クールでミステリアスな部分も、一応は確かに持ち合わせてはいる。
    しかし、やはり本来、本作は、感情移入を強く要求される、大衆的なテーマと面白さを生かした作品であろうとするべきなのは、言うまでも無い。
    その姿勢が要請されるのは、原作の、良い意味で、簡潔で単純で朴訥としている構造からも明らかであり、逆に言えば、曖昧な描写が許されないほどに、決まりきった世界観を表現しなければ、格好がつかないものとなっているだろう。
    事実、山田洋次監督の「隠し剣」シリーズはそのように撮られており、さらにその全てが、エンターテイメントという枠の中で成功している。
    とくに『たそがれ清兵衛』においては、そのような面白さを担保したまま、さらに『地獄の黙示録』をも凌駕するかに見えるほどの神話性を獲得できている。
    だがそれも、大衆性という土台を仕上げた上での、あくまで余剰的なものだということを忘れてはならない。
    それは原作の構造上の問題に他ならず、これを無理に変えようとするならば、様々な齟齬が生じてしまい、結局はオリジナル脚本を書いたほうが、はるかに具合が良くなるはずなのだ。
    そして、やはり豊川悦司は、人間くささを要求されるような『サウスバウンド』と同様、いつものクールな豊川悦司であることをやめなかった。
    この配役と演技のおかげで、「愚直さ」と「必死さ」を強調しなければならなかった本作は、「ミステリアスさ」と「余裕」を、無駄に意識させるものとなってしまった。



    本作、『必死剣鳥刺し』というタイトルからは、「必死になって鳥を刺すように剣を突く映画なのだろう」と考えてしまうが、もちろんそのままの内容で間違いが無かった。
    この作品の売りは、この必殺「鳥刺し」も披露される、壮絶な長丁場の殺陣だという。
    配給はこれを、「日本映画の歴史を塗り替える名シーン」とさえ呼んだ。
    確かに、そこには真に「日本映画の歴史を塗り替えた」傑作、『雄呂血』をも想起させるような、血みどろの壮絶さと悲壮さを感じるところであり、思わず興奮させられてしまったことは事実だ。
    この、無残な斬り合いのシーンからは、「残酷絵」と呼ばれる、一部の悪趣味な浮世絵や、または小山ゆうの「あずみ」の殺陣をそのまま実写にしたような(つまり映画版の『あずみ』シリーズは「あずみ」とは別物である)、絶望と悪夢感をヒシヒシと感じることは、しっかりとできる。
    また、吉川晃司と豊川悦司の大柄な肉体が、いかにも狭い日本家屋の中で対峙し斬り合う、ひとつひとつの所作の楽しさは、映画が、モンタージュを重視して成長してきたという道程に感謝したくなるくらいの幸福さを与えてくれる。
    次々と致命傷の太刀を総身に喰らいながら、それでも何度でも立ち上がる主人公の姿は、志村けんがやっていたようなギャグ、「いつまでも死なない侍」を想起させられ、思わず笑ってしまうのが難点ではあるものの、フィルムの回転数を巧みに操りながら、極彩色の鮮血を堪能できる、稀有な体験と言ってもいいだろう。

    しかし、この作品自体を褒める気にならないのは、このクライマックス以外のシーンが、とてつもなく不出来であるからに他ならない。
    それは、前述の演技の問題に加えて、本作全体の、演出や脚本における、徹底さと正確さと想像力の欠如からきている。

    まず、豊川悦司演じる侍が、このような極めて奇態で卑怯とも言える秘剣を編み出すことになった背景が、ほとんど説明されないのはおかしい。
    「鳥刺し」のような狂気の剣を考案する者は、相当酔狂な伊達者か、死を免れないような戦いを前にしたような人物であるべきだ。
    どの時点で「鳥刺し」を編み出したのかは明示されないが、そういった場面やシチュエーションは、この主人公には存在するようには思えない。
    そのような違和感を、「彼にはミステリアスな一面があるのだよ…」というような、茫漠とした曖昧表現や曖昧な演技で乗り切るのは無理があるし、第一、作品の核になり得る、主人公の人格を大きく左右する部分をきちんと描かないのは不誠実だ。
    「自分ひとりで考案した秘剣」という説明はかろうじてあるものの、それが何故周知の事実になっているのかも謎である。
    このあたりも、山田洋次監督の3部作ではクリアーできていた部分だ。

    また、前述の殺陣が、従来のチャンバラ映画の枠を壊そうとする気概を感じる反面、他の演出や配役が型にはまりすぎていて、あまりに保守的で工夫が無いために、せっかく用意されたどんでん返しが、全く意味を成していない。
    誰がどう見ても、外国人が見たとしても、岸部一徳演じる上役は、「善人のフリをした悪人」であることはバレバレである。
    「一見、優しく見える、善人ヅラをした人物の中に、本当の悪人は隠れているのだ」という部分を描かなければならないはずなのに、どう見ても悪人ヅラの役者に悪人の役を演じさせる意味がまるで分からない。
    これでは観客の、悪役への憎悪が弱くなってしまうし、観客全員が察するような事実に、終盤まで全く気づかない豊川悦司がバカに見えてしまう。
    しかも、風貌や演技が、一見、抜け目が無さそうに見えるために、さらにバカみたいに感じてしまう。

    一番がっかりするのは、池脇千鶴演じる、亡き妻の姪との、「禁じられた恋愛」描写だ。
    豊川悦司の背中を流したり、スネてみせたりするような、秘めた気持ちを表現すべきところは、最高にセクシーな場面になり得たはずだが、演出やカット割りがいちいち不正確なために、豊川悦司も池脇千鶴も、ただいやらしいだけの二人に見えてしまってかわいそうだ。
    この監督は、とにかく恋愛描写が奇跡的に下手だと思う。とくに『しゃべれどもしゃべれども』は、主役達の心の機微や接近が不十分で全く盛り上がらないのに、最後に船上で突然抱き合うというラストシーンが地獄のように不自然で、直視できなかったことをよく覚えている。

    ショットも、殺陣以外では、型通りの美しさは見せるものの、とくに良いと思えるような箇所は、冒頭のファーストカット、能を演じる縁者達を後ろから回りこむようなところしか思いつかない。とにかく終始弛緩していた。

    心理描写や設定、キャスティングや演技指導などの失敗が多いために、傑作になることができなかった、残念な作品ではあるが、それでもクライマックスの凄まじさだけは評価したい。平山秀幸監督作の中では、非常に成功した作品といえるだろう。


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    ケヴィン・スミス監督による、キリスト教の布教を題材とした痛烈なブラックコメディ、『ドグマ』の冒頭は印象的だ。
    マット・デイモン演じる青年が、ジャンボ旅客機でたまたま隣に乗り合わせた若い修道女に様々なヨタ話を吹き込み、「神はいないのだ」と思い込ませてゆく。そして空港に到着した頃には、彼女は完全に教義(ドグマ)を捨てさって、その場で修道服を脱ぎ捨ててしまう。
    しかし、じつはその青年の正体は、神から下界へと追放されている堕天使ロキであり、その説得行為は、神へのネガティヴ・キャンペーンだったのだ…!
    この、教義を捨てさせるヨタ話として、彼はルイス・キャロルの児童文学、「鏡の国のアリス」のなかの、「セイウチと大工」という、マザー・グースの詩を基にした部分を引用し、その宗教的な暗喩を指摘している。
    実際にルイス・キャロルが、宗教批判の意味をそこに込めているのかは、私には分からない。しかし、そういった謎めいた解釈を許すような余裕と曖昧さが、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の特徴であることは確かだ。



    児童文学「不思議の国のアリス」・「鏡の国のアリス」とは、現実社会や人間心理を風刺・象徴しながらも、論理的整合性が狂った、魅惑溢れるマニエリスム的悪夢世界を扱ったものである。
    読者が内容を理解できそうになると、劇中の芋虫によるパイプからの煙幕によってアリスがケムに巻かれるかのように、ナンセンスな問いかけが表れ、非論理の森に迷わされてしまう。
    何故この作品が、出版当時から現代の多くの読者にまで、熱烈に愛され続けるのかというと、美麗な文体とジョン・テニエルによる、愛らしくエロティックな挿絵も影響が大きいのはもちろんだが、前述した、つながったりつながらなかったりする「夢の論理」が非常に蠱惑的であり、また普遍性に満ちているからだ。これこそがアリス文学の魅力の核といえるだろう。

    こういった象徴主義的手法の優れている面は、「秘めた風刺・批判や寓意を込められること」、その上で「論理や社会通念の呪縛から自由であること」、「抽象性・普遍性の獲得」、「表現上の多くの制約を無視できること」、「チャプター同士が、等しく独立した価値を与えられること」などがある。
    もともと、伝承やマザー・グースの詩、中国や日本の文学などにも、このようなポテンシャルは見られたが、このような作劇術は、人類が当然発見すべき金鉱脈であり、ルイス・キャロルが意識的にそれを豊かに児童文学として構築したことはエッポック・メイキングであったものの、そうでなくとも、後年、他の誰かが嗅ぎつけていただろう。

    さて、ルイス・キャロルの愛すべきアリス文学は、100年以上も前から、数多く映像化されてきた。
    今回のティム・バートン版は、ディズニーのアニメーション『ふしぎの国のアリス』を基に、成長したアリスが再び不思議の国に迷い込み、剣を握って王国の危機を救うという趣向だ。

    ディズニーアニメーション『ふしぎの国のアリス』は、「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」を翻案しながらも、非常に良くできた傑作だ。
    それは、もちろんアニメーションという制約上、ジョン・テニエルの挿絵のような、優れて繊細な領域にまでヴィジュアルを向上させるまでには至らないものの、アトラクション「イッツ・ア・スモール・ワールド」も担当した天才的なアーティスト、メアリー・ブレアによる全体への豊かなイメージも、作品世界を充分に美しく表現するということに寄与していたし、何よりも、アリス文学の魅力を損なうことのないように、作品を構成する柱を、丁寧な態度で、壊れないようにしっかりと残し、翻案した脚本を作り込むことができたという功績が最も大きいだろう。
    もちろん、ここに奇跡が起きているというわけではない。監督や大勢の脚本家が、真摯に作品に取り組んだ結果が、ディズニーアニメーション『ふしぎの国のアリス』を、充分にミステリアスで、愛らしく、エロティックに存在させているのだ。

    ここまで言うと、今回のティム・バートン版が、いかに間違った作られ方をしているか、いかに原作の意図を理解していない、または無視しているかという事実が、浮き彫りになるだろう。
    アリス文学の核とは、現実との関連性を持ちながらも、ナンセンスな非論理世界を舞台とした、「夢の論理の作劇」である。
    ティム・バートン版に、そのような優れたナンセンスさがあるだろうか。さらに寓意、風刺、抽象性があるだろうか。
    アリスの迷い込むワンダーランドが、主に悪い意味で、非常に理解しやすく、何が何を象徴しているか、子供でも容易に分かってしまうのは問題ではないだろうか。
    赤の女王が権力を振り回す悪の王国は、姉が体現する「幸せな人生」を象徴しており、それは、欺瞞とまやかしの中で成り立っており、それを守護し担保するのは、「社会通念」という巨大な怪物というように。
    そこには、謎めいた暗喩は存在せず、社会性をそのまま愚直に「アリス的なるもの」に置き換えたようにしか感じられない。
    故に、もはやアリスはワンダーランドに行く必要すらない!現実で思い悩み、勝手に自己啓発をしてれば良いだろう。
    近親者や関係者の前で、勝利宣言をしたアリスが、(周囲の人間にとって)意味不明な踊りを見せるという行為が、極めて馬鹿らしく見えてしまうのは、そのためだろう。

    今回の『アリス・イン・ワンダーランド』は、単純な「悪い魔王とモンスターを打倒し、ファンタジー世界に平和をもたらす」という、使い古されたテンプレートに、アリス風の要素を添加しただけに過ぎない。
    それを証拠に、お馴染みの不思議で狂ったキャラクター達は、整然と論理性を持って、打算的な行動しか取っていない。
    キャラクター達は、「お前、本当にあのアリスか?」と言っていたが、そう言っているお前らこそ、「誰だ?」と言われかねないほど、異常なほどにまともになっているのである。
    そして、入れ子構造になっているその物語が、ただ「アリスの自己啓発」や「女性の地位向上」などへの方向へフォローする役割を果たすだけなのは、極めて不幸だと言わざるを得ない。
    結果として、ルイス・キャロルの文学とはほぼ何の関係もない作品になったばかりか、代わりとなる美点を見つけづらい、非常にありきたりで保守的な失敗作となってしまっている。

    見どころは少なく、いくつかの細かな美術の面白さと、レイ・ハリーハウゼン風の、モンスターとの決闘シーンくらいだが、これらはアリス文学を題材としなければならない箇所ではないはずだ。
    ティム・バートンはどういうつもりでこのような作品を制作したのだろうか。
    おそらく、ディズニーや株主などの意見を尊重した結果なのだろうとは思うが、『ゴジラ』を愛し、畏れ多いという理由から、ハリウッド版の監督を辞退したティム・バートンは、おそらく『ゴジラ』ほどの愛情を、アリス文学や、ディズニーアニメーション『ふしぎの国のアリス』に対し、持っていなかったのだろう。
    『ピーウィーの大冒険』の方が、よっぽどアリス映画だったよ。


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    「閉ざされた島」が主人公となるべきではありそうなタイトルなのだが、映画を観終わっても、いまいち島の全貌が把握できていない。
    隔離施設のA棟、B棟、C棟。そして教会、岩礁、森、灯台などで構成されたこの島は、それらのパーツそれぞれが、地理的なインテリジェンスに乏しく、少なくともフィルムの中では、あまりにも観念的にしか存在し得ない。
    つまり、この島を擬人化すると、魅惑的なヒロインの顔やバスト、ヒップなどの各部のクロース・アップは見られるものの、それぞれのつながりがよく分からないわけで、わざわざ狭く設定されているはずの、島についての全体のサイズさえ不明瞭に感じられ、意味が半減しているように感じられる。
    そのようなバランスを欠いた近視眼的姿勢では、もはや島を舞台とする必然性は無く、この映画そのものの存在価値まで揺らいでしまいそうに感じるかもしれない。
    映像が観念的に過ぎるということは、このタイトルに限っては、プラスに作用しそうな気もするが、それでも、それが作品に寄与しているような具体的な点を発見することは難しく感じるだろう。

    また通常、本作のようなミステリー映画に最も重要だと思われる脚本においても、具体例を挙げるのはできるだけ避けるが、ストーリー展開やラストのどんでん返しに説得力が無く、破綻が散見されるため、感動に包まれるはずの結末をも充分に楽しむことができないのも、紛れも無く失敗といえるだろう。
    「衝撃の真実」が、あまりにもありきたりであるという指摘ももっともだ。
    また、登場人物の名前のアナグラムなど、どうでも良すぎる謎について、ポカンとさせられた観客は多いと思われる。

    そして、各所に見られる美麗な幻想シーンについても、それなりに豊かではあるものの、例えばデヴィッド・リンチのような、一貫性のある研ぎ澄まされたスタイルが見られないために、やはり凡庸な印象が拭えない。

    だが、もはや自らが意欲的でないということに諦念すら感じさせる『シャッター アイランド』は、それでもプログラム・ピクチャーとして、充分にチャーミングに感じられる。
    無論それは、日本の配給会社が仕掛けた、「様々な謎を観客自身が解き明かしていく」ような種類のものではない。
    むしろ表向きは、ハリウッドの古風なミステリー劇として、いささかパロディーの要素さえ感じられるつくりになっているのだが、これを、例えばタランティーノがやるように、あからさまな引用を加え新たなものを創出するわけではなく、愚直なまでに真摯な態度で、自然に演出が行われている…そのような時代錯誤に満ちた保守的な態度に、逆に新鮮な感動を与えられるのだ。
    あたかも、英国からハリウッドに渡り、『レベッカ』を撮った直後の、まだある種のモダンさを獲得していないヒッチコックが、そのまま現代にタイム・スリップして、不出来な脚本を下敷きに、ゴシック・ホラーを演出し続けている…そんな雰囲気すら感じさせる珍品として仕上がっている。その異様さが凄まじく楽しいのだ。

    と同時に、この映画は、前述したようなふれこみの謎解き映画ではなく、どちらかといえば、宝島で宝を捜索するようなアドヴェンチャーにも近いといえる。
    こちらの感受するチャンネルを切り替え、島の名勝地と精神世界を交互に辿っていくようような、「地獄巡り」として楽しむこともできる。
    そういった意味で、デヴィッド・リンチを想起させられたのは、この『シャッター アイランド』の構造が『マルホランド・ドライブ』にも似ているからでもあるだろう。
    つまり、「衝撃の結末」を理解したうえで再構築された記憶も、本作品の実態のひとつであり、それが『マルホランド・ドライブ』ほどアーティスティックではないにしても、ある程度の矛盾を抱えながら、表向きのミステリーと絡まりあって、どちらの面でもエンターテイメントとしての立場を獲得できているところは、評価されるべき点といえる。



    マーティン・スコセッシは、近年はレオナルド・ディカプリオを主演に作品を撮りつづけている。それは何故か。
    『ギルバート・グレイプ』や『バスケットボール・ダイアリーズ』のようなセンシティヴな少年、または『ロミオ&ジュリエット』や『セレブリティー』のような美青年の頃の彼と比べると、コロコロと太り、7割がたおっさん化した中途半端な子役のようなその風貌は、核と言えるような自らのスタイルを確立できず、鈍く中庸的な、茫漠とした職人としての能力を誇示することしかできなくなってしまった現在のスコセッシと、奇妙な類似を見せている。
    個性の薄い監督は往々にして、出演者の演技力に、演出の不十分さを埋めるべく依存してしまうものだが、あくまで堂々と見える演出を見せる現在のスコセッシと、その分身ともいうべき存在の、あくまで演技力のある現在のディカプリオは、確かに互いの巧拙を曖昧に埋め合う、消極的なコンビネーションを見せ、その作品は結果として、商業的にも、内容的にも充分な健闘をしている。

    ところで今回、前述したようなふれこみによる「観客自らが解いてゆく謎解き映画」というのはそもそも、存在し得るのかというのを、本作とはほぼ何の関係も無く、今回考えさせられた。
    インターミッション(コマーシャル)が多く挿入され、視聴者同士がどうのこうの会話しながら、設定された謎を解くことを楽しむようなTVドラマ、例えば「刑事コロンボ」のような作品は別として、観客が能動的に作中の謎を指摘させるような試みは、会話をすることがが難しい劇場内では、おそらく無理だろう。
    さらに、そのような問題を乗り越え、「謎解き映画」が成り立つとして、それは果たして面白いといえるのだろうか。
    『殺人ゲームへの招待』という、複数の犯人と結末を用意した映画があったが、それは、「脚本にはいくらでもこじつけが可能である」という、自虐的な事実を指摘したものだった。
    結末が意外であればあるほど、ドラマに説得力が無くなり、作品の価値や普遍性が削がれる。
    逆に、ドラマに説得力を持たせ、力を入れた作劇をすればするほど、観客の、映画への能動的参加を拒むことになるだろう。


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    アメリカが「イラク戦争」と呼ぶ、一連の侵攻・戦闘行為は、米軍にとって、物量において劣る反米武装勢力による奇襲的な反撃との戦いでもある。
    能動的な侵攻ではなく、そのような、とりわけ爆弾を使用した反撃の防戦・テロ事件への関与にあたる部分が、『ハート・ロッカー』で描かれる内容だ。



    ヴェトナム戦争を扱った、『地獄の黙示録』、『フルメタル・ジャケット』は、誰もが想起するだろう戦争映画の傑作だが、これらは戦争の終結後、ある程度の時間が経ってから制作されている。
    オリヴァー・ストーンの『ワールド・トレード・センター』や、ポール・ハギスの『告発のとき』などを観れば明らかだが、その渦中にいる時分には、とくに監督が周囲の圧力で萎縮してしまうため、どうしても表現にブレーキがかかってしまい、テーマが散漫になり、徹底した描写を避けてしまう、つまり、面白くなくなってしまう傾向にあるだろう。
    『ハート・ロッカー』も、確かにそのような罠にはまっており、悪い意味で周囲の空気を読んでしまっていて、適度に反逆的でリベラルな顔をして、中途半端な位置に収まっている。
    基本的には戦争の末端で戦う尖兵達の狂気を描写しながらも、彼ら全ての尊厳を最低限守りきっている、その結果、米軍・政府の尊厳を冒すまでにも至っていないのだ。
    米軍側に、例えばキルゴアのような不謹慎な軍人がいるわけではないし、極端に臆病だったり、あまりに知的水準の低いような兵士がまるで登場しないのは、従軍メディアが伝える報道の枠を超える部分がほとんどなく、現実的ではない。
    爆弾魔との攻防を描いた作品だとはいっても、反米武装勢力に、子供の体内に爆弾を埋め込むという鬼畜的な役割を担わせる一方で、捕虜の拷問など、米軍側の鬼畜的な行為の方の描写には全く手付かずというのはアンフェアだ。
    それでこそ現在のアメリカの風潮の中で賞賛されるのだろうし、アカデミー作品賞・監督賞にノミネート、さらに受賞したという事実が、アメリカの時代的な特殊性を指し示しているのだろう。

    "War is a drug"という冒頭のメッセージが、ラストシーンと完全に合致するのは、映像作家の姿勢としては相当にまずく、監督の鈍感さにひどく驚かされた。
    テーマを自分で一言にまとめて、冒頭で紹介してしまっては、あまりに作品世界が狭小になりすぎてしまう。

    それに続く爆弾炸裂までのシークエンスは、爆弾の解体における特殊な緊迫感が表現され、ベタなアクション映画的快楽に満ちていて、文句無く面白いといえるのだが、肝心の爆破シーンが決定的に退屈だった。
    爆弾を処理しようとして失敗、爆弾から逃れようと走る兵士が、爆風で吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
    次のシーンで、この兵士が死んでいるということが分かるようになっているのだが、これが意外に感じるほど、死ぬような爆風には全然見えなかった。
    この冒頭の演出の狙いは、爆弾の恐ろしさを観客に決定的に刷り込んでいかなければならないはずだが、このような、死んでいるのかそうでないのか分からないような中途半端な衝撃シーンの後では、それに続く爆破シーン全てが曖昧で良く分からないものになってしまう。明らかな演出の失敗だ。
    監督は、爆破の一連のスローモーション、「周囲の小石が浮き上がる」、「うち捨てられた車のルーフに付着した砂が舞う」などの各カットの意味やモンタージュの順番の理由を論理的に語ることができるのだろうか。

    とはいえ、いくつかの爆弾解体における緊迫感は、ある程度しっかり描けているし、ライフルでの長距離射撃戦は、いい感じに砂っぽくて、なかなかの見どころになっている。
    また、周囲の現地住人が全てテロリストのように思えてくる、不気味な焦燥感も良く描けていた。
    最も注目すべきは、どう見てもホモ・セクシャル的要素を感じさせられてしまう、兵舎で兵士達が格闘し、じゃれ合う部分だ。
    馬乗りになって叫ぶような箇所は、レイプまがいのシーンだと思われるくらいに、それが強調されていたが、このあたりを、本当に嬉しそうに楽しんでいきいきと演出しているところが、さすがキャスリン・ビグロー監督、というところだろう。
    だが、『ハート・ロッカー』が、これもビグローの秀作『ハートブルー』に決定的に劣るのは、このような魅力を作品のテーマと結合させることができず、ここも中途半端に終わってしまったが故だ。

    同じくアカデミー賞を争った、『アバター』よりは見どころがあるものの、一般的な作品の水準に達しているのかも危ぶまれるような作品が、賞レースを争っているという状況は、多くの観客が過去に多くの失望を味わい、そのような賞を冷ややかな目で見ているとはいえ、好ましいものではない。
    多くの優れたアメリカ映画が、ノミネートさえされず、正当な評価が得られないことを、いつも苦々しく思っている。


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