『アバター』は、次世代のハリウッドを支えようとする、「立体映画」の未来を占う最初の超大作として、巨額を投じ制作された。 私は、新しい地平に踏み出すクリエイターの勇気を賞賛したいし、そういうスタッフ達を批判はしたくない。 だが、『アバター』はあまりに壊滅的な出来で、美点を探すことさえも極めて困難な失敗作になってしまった。 この映画、観終わった後に、内容について誰かと会話したいというような気が全く起こらないほどに、印象が無いし、存在感が無い。 先日、ゴールデングローブ賞の作品賞、監督賞ともに受賞したものの、断言するけれど、この映画は半年も経つと忘却の彼方だよ。
まず、一番の売りであるはずの、3D映像のアトラクション的体験についてだが、これが「未体験」だと思われるようなものでは決してなかった。 立体映像が効果的なシーンが非常に少なく、飛び出しても飛び出さなくても、どっちでも良いような箇所ばかりである。 今つらつらと思い返してみても、パターゴルフでコーヒーカップを倒すシーンくらいしか、立体である意味があった場面が思い当たらない。まあそれにしたって、オリジナリティのかけらもない、何も面白くないシーンだったけれど。 確かに、崖の下を怪鳥が飛んでいたり、霧の中の浮き島群など、奥行きを出そうとしていることは認めるけれども、これらの映像が全くの平面であったとして、さして感想は変わらないのではないかと思う。 その意味では、これも不完全だったゼメキスの『DISNEY'S クリスマス・キャロル』の方が、立体の面白さを伝えようとしてい、まだ成功しているのではないか。 そして、両者よりも、コッポラの『キャプテンEO』の方が、懐古趣味ではないけれど、よほど面白いし衝撃的だった。 まあ、あれは劇場設備にレーザー光線やスモークがあったりしたので反則かもしれないが、それでも立体映画として、様々なテクノロジーを駆使しているはずの『アバター』が、20年以上前の作品に負けているのはどういうことだ。 ギーガー風に特殊メイクしたアンジェリカ・ヒューストンの邪悪な爪が、ワサワサと観客へ向けて突き刺さろうとする…そのような魅力に代わることの出来る何ものかが『アバター』には何ひとつなかった。 ちなみに、『DISNEY'S クリスマス・キャロル』には、「過去のクリスマスの精霊」の挙動不審な動きなど、観客を驚嘆させるものがまだあった。 『アバター』で決定的に落胆させられてしまうのが、その世界観だ。 不思議なジャングルや聖なる樹など、美麗といえば美麗なのだが、「ファイナル・ファンタジー」のムービー…とまで美的センスが悪いとは言わないまでも、場末のラブホテルに飾ってあるラッセンのイルカ絵や、シム・シメールの虎の絵みたいな、とんでもない田舎者しか評価しないような雰囲気に満ち満ちた安っぽい背景には、眉をひそめるしかない。 メカニック・デザインや室内美術のつまらなさも特筆ものである。 『2001年宇宙の旅』や『スター・ウォーズ』のような実体感や奇抜さ、SFの面白味は味わえず、『デューン 砂の惑星』や『リディック』、『サンシャイン2057』にさえも勝てていない。 低予算SFならほほえましいけれど、ハリウッドの未来を担うべきSF映画が、この程度の美術で何故OKが出てしまうのか、ワケが分からない。 それに、あの青い肌の異星人は、劇中で「エイリアン」、「エイリアン」と呼ばれていたけれど、三つ編みの中に触手があるのと体が大きいだけで、ほとんど人間が仮装してるのと変わらないじゃないか。 ゾウとか恐竜とか、地球の動植物を扮装させただけのような諸々にも、独創性を何も感じない。 せっかくフルCGなのに、イマジネーションが貧困なために、学芸会の扮装に近くなってしまっているのは、哀れだと言うほかはない。 さらに仰天してしまうのは、脚本のあまりの幼稚さだ。 これ、「ポカホンタス」の設定がSFっぽく変わっただけじゃないか。 まあ「アバター」なる、「他人の体を借りる」という要素が追加されてはいるが、そのために、テーマにとっては不要な描写が増えることになり、結果として作品の印象が薄くなっている。 同じく「ポカホンタス」を基にした、テレンス・マリックの『ニュー・ワールド』の方が、物語や設定が整理されているため、ストーリー以外にも、映像の美しさや演出を、純粋に楽しむことが出来る。 『アバター』というタイトルから、それでは、例えば押井守の『イノセンス』にもあったような、擬体・ゴースト・人形・実存などの、リラダン的な哲学世界を垣間見せるのかというとそうでもなく、ただ、「どっちが現実が分からなくなってきた」という、漠然とした恐怖感を主人公が語るだけだ。これだけで、観客に何を感じさせようというのか。 結果、162分と長尺になってしまっているが、その割には内容がスカスカである。 確かに、現実と、もうひとつのとの現実との曖昧な距離感というのは、いい意味の不思議さ、気持ちの悪さを、一応は感じさせるところではあったので、例えば、そのふたつの現実に加え、就寝時の夢の世界の描写を付け加えると、問題が明確になったかもしれない。 さらに、主人公は、自らの言に説得力を持たせるために、ドラゴンライダーのような、なんだかとても尊敬される勇者になるわけだが、その過程の部分がカットされているのが納得いかない。 無駄のように思われるシーンが非常に多く感じられるのに、肝心な試練をちゃんと描いていないので、観客は、狐につままれたように感じるだろうし、その後の、主人公への過大な尊敬も合点がいかなくなる。 このストーリー展開に唯一の独創性があるとすれば、それは、「主人公がエイリアン側に寝返り、人間と戦い、勝利してしまう」というところだろう。 一見、過激なまでにリベラルな態度を感じる箇所だが、ここにも疑問符をつけたい。 「ポカホンタス」は、現アメリカにおいて覇権を握るアングロ・サクソン系の人々、つまり英国人が、先住民の聖地を侵略する物語であり、そこにはある程度の「侵略者の内省」を感じるところなのだが、『アバター』では異星人の村を侵略しようとするのは、狂ったキルゴア大佐みたいなのが指揮する、現地に企業が派遣した暴走傭兵軍団ということになっている。 それはあたかも、外国でアメリカ出身の兵士が、現地の少女をレイプしたとして、「それは一部のろくでなしの犯行だよ。第一、アメリカ兵じゃなくて民間企業の兵士だし」と言い訳しているように感じられ、気分が悪い。 キルゴアみたいな大佐は、クライマックスで、「俺がいる限り戦争は終らん!」と言い放つ。お前一人が戦争の原因だったのかよ。 『アバター』はアメリカ政府を批判していない。アメリカ企業も批判しない。悪いのは、あくまで末端の悪人なのである。 冗談じゃない。もともとイラク戦争を支持したのは、多くのアメリカ国民じゃないか。当時の日本政府も支持したから、日本人にだって責任はある。 このような、自分自身を悪行から切り離し、土壇場で責任から逃げようとする態度では、人間の、本来持っている原罪や悪魔性、残虐さを描ききることなどできるわけがない。 そういったことをテーマとしたわけではない…というのであれば、はじめから、軽々しく戦争の悲劇やヒューマニズムらしきものなど、描こうとするべきではないだろう。 「ワルキューレ作戦」という言葉が劇中で出たことで、やはりキルゴアを想起させられてしまう、この筋肉大佐は、劇中で唯一、魅力的なキャラクターなのかもしれない。 しかし、やはりオリジナルのキルゴアの方が、全然狂ってるし、知性的だし、何よりも恐い。 空爆シーンに、さすがにワーグナーは流れることはなかったが、『地獄の黙示録』の空爆シーンのような迫力、後ろめたい快感や美しさは、この映画には全く無い。 まるきり劣っているくせに、よく『地獄の黙示録』にオマージュを捧げられると思う。 ところで、主人公は異星人と共に人間と戦うが、それでは、果たして異星人側は正義なのだろうか。 異星人は、人間に姿がそっくりなように、発想も人間にそっくりである(というか、アメリカ先住民そのものなのだが)。自分達を襲う武力に対し、武力で応戦する。 今回、たまたま異星人側が勝利してハッピー・エンドを迎えるわけだが、このような解決方法では、また恨みを持った地球人に攻められるのは必至だろう。 テロに対して空爆する。空爆に対してテロを行う。これでは、いつまでも戦争は終らない。 そのような、アメリカが現実に直面している泥沼的な状況に対し、『アバター』は何らの教訓を与えないばかりか、逆に自衛権礼賛、戦争礼賛という印象を与えている。 村の大木が破壊され倒壊する場面では、「911テロ」を想起させられたが、それに対し、報復することを奨励する『アバター』は、イラク戦争をも正当化しようとしているようにも感じられてしまう。 一体、何がやりたいんだ。ジェームズ・キャメロンって、馬鹿なんじゃないかとすら思えてくる。 『アバター』はほぼ全ての面で失敗しているとして、しかしおかげで、3D映画について考えを進めることはできた。 それは、3D映画は、ただ2D映画のアップグレード版ではいけないということだ。 従来の映画の企画を、そのまま3Dで撮ってみても、『アバター』のように、飛び出す必要の無いシーンがほとんどになってしまう。 3Dにフィットした傑作が生まれるためには、企画、脚本、絵コンテの段階で、それぞれ綿密な、3D独自の検討が必要になると思われる。 それを推し進めると、現状の環境では、2D版、自宅鑑賞を切り捨てることにもなりかねない懸念は、確かにあるだろう。 しかし、2Dという逃げ場に足を置いたままで、良質な3D映画を制作できると思っているのならば、ちょっとムシの良い話なんじゃないかと思っている。
クライマックスの空中戦を観ながら、宮崎駿作品が古典として引用されるまでになったことに、随分と感心させられてしまった。 ジョン・ラセターからの影響もありそうだが、アメリカに限らず、現代のクリエイター達は、古今東西、多岐にわたるライブラリーを参照し、作品を作ることが出来るのだ。 文化がボーダーレス化していくことの功罪はいろいろあるだろうけれども、私は、文化の地域性というものをそれほど重視していないので、基本的には、作家個人の優劣が、より純粋に判断できるこのような状況を、素晴らしいことだと思っている。 しかし、この『カールじいさんの空飛ぶ家』、極めて魅力的なその導入部と比較すると、このクライマックスを含む後半部分が、壊滅的に退屈である。 しゃべる犬群との追跡劇、空中での立ち回りなど、全く、わくわくもドキドキもしないのだ。これは、どういうわけか。
内気な少年(後のカールじいさん)が、冒険好きで魅力的な少女に出会ってから、結婚し、老年になってその最愛の妻を失うまでのモンタージュは、アニメーション史上に刻まれ得る叙情シーンだと、私も思う。 『グラン・トリノ』同様、カールじいさんは、失った彼女を、二人で建てたその家そのものに見出そうとする。 そして、無数の風船にその家ごとぶらさがり、かつて二人が夢見た冒険の地へと赴くべく、大空へ舞い上がる。 冒頭からここまでの流れはほぼ完璧で、否応無しに感動させられてしまう。 しかし、よく考えてみたら、これはアルベール・ラモリスの『赤い風船』の内容とほぼ同じ展開である。 『カールじいさんの空飛ぶ家』は、さらにその後の展開を描いているのであり、この後半こそが、本作のオリジナリティと呼べる部分となるはずだ。 老人は、最愛の妻のための旅の途上で、頭の弱い犬、頭の弱いアジア系の少年、頭の弱い鳥を仲間にする。 それは奇しくも、桃太郎の犬、サル、キジと偶然符号するのだが、なんと老人は、その頭の弱い犬、サル、キジのために、妻同様になっている家をあきらめることになるのだ。 この展開ならば当然、最愛の妻よりも、犬、サル、キジの存在価値を重く描いておかなければならないはずだが、その彼らが全く魅力的に描かれていない。 何故、彼ら仲間の頭が良くないのかというと、老人の知恵を必要とする、弱い子供としての役割を担わされているからだろう。 つまり、「最愛の、しかし死んでいる妻より、馬鹿でも生きている子供」という、社会的に真っ当な価値観を、老人が受け入れるという構図である。 もし、私がこの老人の立場であっても、そのような選択をするしかないだろうと思う。 何故なら、人間は社会性の中で生きなければならない存在であり、真っ当な社会的倫理観からいって、または宗教的倫理観において、「そうせずにはおれない」枷が、我々につながれているからに他ならない。 老人は空に飛び立って、それら全ての枷から逃れ得たはずだったのに、再びその枷につながれ、あまつさえ屈服してしまうのである! この展開を見て、私たち観客は感動できるだろうか。現実に打ちのめされた姿を眺めながら、「そりゃ、そうだよなー」と思うしかないのではないだろうか。 黒澤明の『生き物の記録』で、三船が演じる、核爆弾に怯える老人が、ラストでまともになって、「これからは迷妄を捨て、現実的な幸せを追求するぞ」と言い出したとしたら、それは一個の作品としてどうだろうか。 安心はするかもしれないが、そこには何のテーマも、感動も残らないはずだ。まさにこの『カールじいさんの空飛ぶ家』のように。 宮崎駿は、よく「ぼくはキチガイが好きです」と、各所で発言してきた。 これは、「常軌を逸するほどに高められた精神こそが面白く、また美しく、価値がある」ということだと、私は理解している。 「怪獣が子供を人質に取ったとしても、地球防衛隊は怪獣を攻撃することを断念してはならない」というようなことも言っている。 宮崎作品の主人公の多くは、たとえどんな犠牲を払おうとも、やるべきことはやるのだ。 ポニョはその代表格なわけだが、そのような行為は、社会的に見ると、紛れもない狂気なのである。 そして、それが反社会的であればあるほど、孤独であればあるほど、その魂は美しく輝くことになる。 このことを、『カールじいさんの空飛ぶ家』の監督・原案・脚本を担当したピート・ドクターは、何も分かっていない。 そしてそれこそが、現代最高の監督のひとりであるブラッド・バードと、ピート・ドクターの決定的な差になってもいるのだ。 『レミーのおいしいレストラン』が、『アイアン・ジャイアント』が、何故ここまでの傑作になり得ているかを考えて欲しい。 宮崎駿が評価する上海アニメーション、『ナーザの大暴れ』において、愛する者のために自らの首を剣で掻き切るナーザに、心揺さぶられるのは何故なのかを考えて欲しい。 これも宮崎駿の信奉している、ロシアのアニメーション映画『雪の女王』の主人公、ゲルダの話をしたい。 氷の世界に住む雪の女王は、人間界の少年カイを見そめて、氷の城に幽閉する。 カイを愛する少女ゲルダは、あらゆる艱難辛苦を乗り越え、ボロボロになりながら、裸足で氷雪を踏みしめ、氷の城に到達する。 ゲルダはカイを呼ぶ。 「カーイ!」 その声は氷の壁に反響し、城全体に響き渡ってゆく。 「カーイ!」「カーイ!」「カーイ!」「カーイ!」「カーイ!」… 氷の壁に声がぶつかる度に、そのかわいらしい声は、野太く、低く変容していく。 これは素晴らしい演出だ。かわいらしい少女は、壁にぶつかるごとに、強い情念を持った大人の女になっていくのだ。 そしてその声は、最終的に雪の女王の声と酷似してしまう。ゲルダの情念とは、雪の女王のそれと、結局は同じものだったのだ。 そこに、社会的な正義感は無い。ゲルダと女王の勝負は、女と女のエゴのぶつかり合いでしかないことが暴露されるシーンである。 しかし、だからこそ、その魂は何よりも強く輝き、私達を共感させ、真に感動させることにもなるのではないか。 私達が日々体験している、退屈な社会的規範の範疇の外に出なければいけない。何故なら、そこにしか真のカタルシスは存在し得ないからだ。 ということで、論理的には、カールじいさんは、犬、サル、キジをショットガンで吹っ飛ばして、先に進むべきなのである。
今さらながら、新年のごあいさつをしたいと思います。おめでとうございます。 昨年は、当サイトの更新が滞ることが多く、メルマガはさらに更新が滞っており、慙愧に耐えません。 誰かに頼まれて書いているようなものではなく、また私の記事を心待ちにしている方はごくわずかだろうとも思うのですが、それでも罪悪感を感じてしまうものです。 特に年末更新しなかった理由は、仕事がたてこんでいたこと、プライヴェートでいろいろとトラブル続きだったこと、「ブログ書いている場合なのか」という逡巡、サイトの表示速度の遅延によるイラだち、PSPの「サカつく6」で自分のクラブをJ1に上げていたりなどなど、様々あります。 とはいえ、劇的に更新数を増やすこともないとは思いますが、引き続き当サイトを覗いていただけると幸いです。 更新状況は、Googleリーダーなどをはじめとする、各RSSリーダーにて、以下のURLをご登録くだされば、容易にご覧になれますので、ぜひご利用ください。 http://k.onodera.blog.ag/rss.php?u=k.onodera 今年は、まず鑑賞してたけれどなかなか時間が無く書けなかった、『アバター』と『カールじいさんの空飛ぶ家』を血祭りにあげ、ポン・ジュノ監督の『母なる証明』を、これでもかと褒めちぎる予定です。 お楽しみに。
『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』の成功を得て、ソニー・ピクチャーズが、今度は存命中の歌姫、セリーヌ・ディオンの世界93都市を周る「ザ・テイキング・チャンス・ワールドツアー」を追いかけた"Celine: Through the Eyes of the World"をドキュメンタリー映画として公開する。 この予告編の演出、『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』にそっくり。 ともあれ、彼女のファンにとっては僥倖ともいえる、今回の劇場公開だろう。 今作の成功如何によっては、ライヴ映像の映画化ラッシュブームが訪れそう。
クエンティン・タランティーノ監督の長編作品は、例外なく全て傑作であったと、私は思っている。 この『イングロリアス・バスターズ』についても、もちろん以前の作品と同じく、またはそれ以上に文句無く面白いし、映画愛にあふれたほほえましいものになっている。 その上で、かなり落胆させられてしまったことも事実で、私自身、鑑賞後すぐにはその落胆の原因は分からなかった。 これは、『キル・ビル』2作品のときに、漠然と感じた違和感と、非常に近いもののように感じた。
農夫と、その美しい娘達が住む農場に、ナチス将校が訪問するという、長く緊迫したサスペンス・シークエンスで映画は始まる。これがもう、完璧に面白い。 タランティーノ監督作にありがちな無駄な長話が続くように見せながら、じつはそのほとんどが伏線だったということが分かるという、巧妙で頭の良い構成で、加えて『キル・ビル』2作品でカメラを担当したロバート・リチャードソンのカメラワークの巧みさ、さらにクリストフ・ヴァルツの神がかった演技が、それを後押ししている。 故に、映画史に残すべき、職人的で完璧なオープニングとして完成されているわけだが、その「完璧である」という事実、そしてそれが全編にわたって通底していることに、何となく違和感を感じないだろうか。 『イングロリアス・バスターズ』は、『パルプ・フィクション』や『キル・ビル』2作品などと同じく、いくつかのチャプターに分かれ、小説風、または舞台演劇風に構成され、またそれが強調されている。 それらチャプターのひとつひとつは、互いに関連しているのだが、それぞれ独立した短編と見ることもでき、故に、そのそれぞれに主人公が複数存在している、ということにもなっていて、これがタランティーノ作品の特徴であるといえるだろう。 今回は、『パルプ・フィクション』と比較しても、そのそれぞれのエピソードが、よりしっかりと練られているし、ディテールを含め、完成度の点で上を行っていることは事実だ。 とにかく、チャプターのどこを取っても、ごはんが何杯でも食べられる素晴らしさだと思う。 だが、例えば『パルプ・フィクション』や『ジャッキー・ブラウン』、『レザボア・ドッグス』等のそれと、『イングロリアス・バスターズ』、または『キル・ビル』2作品のそれとは、チャプターの役割と性質が異なっているように感じられる。 『イングロリアス・バスターズ』のチャプターは、独立した面白さを重視し、ひとつひとつに明確なオチを設定していて、非常に分かりやすくもある。 従来の作品では、チャプター同士の繋がりにこだわり、また、あるべきはずの情報を、わざと他のチャプターに移動させるようなことも行っていた。 それがチャプターひとつひとつの、脚本上の独立した面白さを抑えてしまっていることも少なくなかった。 例えば『パルプ・フィクション』のオープニングは、ティム・ロスとアマンダ・プラマーが演じる、パンプキンとハニー・バニーが、ファミリー・レストランで強盗を始めるまでの会話シークエンスだ。 ほとんど会話の面白さだけで持たせようとするこの部分は、『イングロリアス・バスターズ』の冒頭と比較すると、問題にならないくらいつまらない。 しかし、映画が終わり、冒頭部分や、他のシークエンスを振り返ったときに、それらは、全体を豊かにするピースとしての役割を、かなり重く担わされているということに気づかされるのである。 では、『イングロリアス・バスターズ』ではどうかというと、それらが「完璧に面白い」反面、映画全体には、そのような有機的な影響をそれほど与えていず、「シークエンス自体の面白さ」、「キャラクターの紹介と今後のための動機設定」、「感情移入」などという、極めて一般的な映画作品のシークエンスとして機能しているのだ。 もちろん、それは悪いことではない。 しかし、今まで、従来の映画作品のクラシカルな引用を連発しながらも、結果的に、常に全く別のウルトラモダンな作品として、それらを「新生」させてきたタランティーノ作品の中では、あまりにも「映画が映画的であろうとする意思」、それが目指す地点に、行儀良く収斂されすぎてしまってはいないか。 その結果、数々の、他の映画作品からの引用部分も、オリジナルと同じような演出意図で使用されてしまっているように見えてしまう。 英国人スパイが些細なことから正体がバレてしまうシーンは、おそらく『大脱走』からの引用だろうが、これではシチュエーションが全く同じじゃないか。 『イングロリアス・バスターズ』は、要所要所でのディテールや演出はレベルアップしていても、このようなことから、タランティーノ監督作の中では、極めて無個性に感じるのである。 そもそも、タランティーノ監督作の魅力とは何であったのか。 『キル・ビル』2作品上映時は、日本でも話題となっていたが、その中で大きく取りざたされていたのは、やはり「引用」のマニアックさ、またはヴィジュアルセンスであったと思う。 『仁義なき戦い』に『マタンゴ』、『サンダ対ガイラ』、ショウ・ブラザーズにマカロニ・ウェスタンなどと、古今東西に渡る素材のリミックス作業、そのデタラメさが新鮮だったのだろう。 もちろん、レンタルヴィデオ店で働いていたオタク青年の、マニアックで深い映画愛が昇華されたような作風には、胸に迫るものがある。 しかし、当時のメディアは、あまりにもそのような部分を指摘することに終始しすぎ、本質を見誤っていたのではないだろうか。 そのような外形的な部分でタランティーノ作品を支持するのは軽薄すぎるし、彼の作品の真価とは、そのようなところに留まってはいない…ということを、私は強く主張したい。 その真価を探るには、例えば『パルプ・フィクション』を振り替えると、最も分かりやすいのではないかと思う。 ジョン・トラヴォルタ演じるヴィンセントが、ユマ・サーマン演じる、ボスの愛人ミアを尋ねるシークエンス。 ヴィンセントが待たされることになる、ヴィンセントのボスの邸宅における美術が非常に面白い。 庭からリビングにかけて、背の高いアフリカの民芸風彫像が、要所に置かれ、全体の雰囲気を支配しているのである。 この美術品の美しさに目を惹かれるのだが、じつはこの後のチャプターで、「ボスはアフリカ系だった」ということが観客に知らされることになる。 例えばスパイク・リーの『ガール6』などでも見られるのだが、リッチなアフリカ系アメリカンは、インテリアにアフリカのルーツを誇示するような美術品を設置する場合があるようで、それは映画の中では、キャラクターの個性を表現するための、分かりやすい記号としても機能する。 もし、ボスがアフリカ系であることが事前に観客に分かっているとすれば、アフリカの彫像が置かれていたということが、ボスのキャラクターを暗示させるという意味を強調するだろう。 それは、映画のストーリーを盛り上げる反面、せっかくの美しい被写体が、単なる「記号」と化してしまいがちであり、映像から美しさを奪う原因ともなる。 また、ボスがアフリカ系で無かったとするならば、アフリカの彫像は、美しさを誇示する効果を与えるが、秩序を欠いた作品になってしまうだろう。 しかし、ボスがアフリカ系であり、それを観客が知らないという状態であれば、観客は、新鮮な目で美術を享受するだろうし、映画が進む中で、これが脚本に影響を与える存在であったと気づくことになる。 ここで映画は秩序を取り戻すことになるのだが、しかし依然として、美術を享受した感動は残るのである! そのような演出を、タランティーノは、チャプターを組み替えることで実現させている。 ハリウッド風ダイナーでの、ヴィンセントとミアの会話や、ダンスシーンも、同様の理由により、本来、素材が持っている魅力以上のものに完成されていることが分かるだろう。 このようなアナグラム的構成を、恣意的に、かつ自在に行うことができ、それでいて面白く仕上げることのできる手腕が、タランティーノの能力の中で、最も驚愕すべき点なのだ。 脚本も映像も貧しい、クリストファー・ノーランの『メメント』とは、まるっきりレベルが違うのである。 タランティーノは、この『パルプ・フィクション』において、従来の「映画」と呼ばれるものを、軽々と超えてしまった。 メソッドは違えど、このような境地に達しているのは、例えばフェリーニやパゾリーニ、デヴィッド・リンチやリチャード・リンクレイターなど、極めて傑出した頭脳と感性を持った一部の作家に限られている。 それら天才の繰り出す演出の拳は、人々に「名画」だとか「映画的」だとか言われるような多くの映画作品を、一発で墓場送りにするほどの破壊力を秘めているのである。 そういうことができるような作家は、ぜひ、そういうことだけをやって欲しい。 『イングロリアス・バスターズ』のチャプターは、オープニングを始めとして、完璧である。 しかし、その中の展開は、チャプターごとに消化され、従来のタランティーノの持っているだろう聡明さが見えず、凡百の映画に感じるような、安心と退屈さをも同時に与えてくれる。 極めて良く出来た、普通の映画なのである。 一般的な監督と同じようなアプロ−チで、今までのように、それらを乗り越えることができるのだと思っていたとするならば、考えが甘かったのだということを指摘しなければならない。 今までのメソッドを利用しながらも、その個性を少しずつ手放し始めているように見えるタランティーノだが、『イングロリアス・バスターズ』に関しては、構想10年の作品であり、彼の、作家としての本当の意味での最新作は、『デスプルーフ』だといえるかもしれない。 『デスプルーフ』は、今までのように時制のローテーションを行わない、それでいて大変に新しい大傑作である。 米国において、興行的に『イングロリアス・バスターズ』は大成功し、『デスプルーフ』は大失敗したが、私は、後者に今後の光明を見出している。 だがそれでも、私は『イングロリアス・バスターズ』を愛する。 それは、ブラッド・ピット演じるアルド・レイン中尉のキャラクターがひどく素晴らしかったからだ。 あの抑揚の無いひどい訛りで檄をとばす登場シーンから、「ああ、ジョン・フォードとかハワード・ホークスの西部劇に出てくるような、世間の常識が通用しない荒くれが、ナチスドイツに乗り込んでいってぶっ殺しまくるストーリーなんだな」、ということを予感させた。 そして、ラスト・シークエンスで、米国の軍規によって守られているはずのインテリで狡猾なナチス将校をぶっ飛ばして、唖然としている彼の目の前で、「あとでお小言を喰らうだけさ」と嘯くかっこ良さ。 また、国策映画ばっかり作っておきながら、「自分はドイツにおける、メイヤーでさえなく、セルズニックなのだ」と標榜するゲッペルスのキャラクターの憎たらしさも凄まじく、「この外道が!」と思っていると、しっかりと惨殺してくれるところも素敵で、極めてロマンティックだと感じられる箇所だった。 PR⇒ イングロリアス・バスターズ オリジナル・サウンドトラック