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    『借りぐらしのアリエッティ』は、私が観てきた実写映画、アニメーションを含めた作品群の中でも、最低最悪の位置に属するであろう、思い出すのも汚らわしく感じる、こうして『借りぐらし…という文字をタイプするだけで、いくらか具合が悪くなるほどの、忌むべき劣悪な作品であると思っている。
    こんなに退屈な思いをしたのは、桃井かおり監督作品を観ているときと、親戚の自慢話を聞いている時間以来だった。
    もはや映画の内容を判断するとかしないとかのレベルではなく、同じ時間トイレに監禁された方が幾分マシと思えた程だが、それでも私が公開当時、劇場で退席しなかったのは、この作品を、意地でも観たのだ、という既成事実を作るため、もうその一点しかなかった。
    これを聞いて、「え?そうかな?そんなにひどいかな?」と感じる人もいるかもしれない。実際、ネットを中心とした反応では、あの『ゲド戦記』と比較すれば、はるかに穏当なものであり、好意的な意見すら見受けられる。
    それは、騙されているのだと思う。また、フラストレーションを感じないとすれば、この作品にしっかりと対峙してないからである。
    私は以前、『ゲド戦記』を酷評した覚えがあるが、この『借りぐらしのアリエッティ』に比べたら、あの『ゲド戦記』もまだ見応えがあった、そのように思えてくるほどの作品である。
    この映画には、観ていて楽しいとか嬉しい、面白いといったような要素が、何一つ存在しない。そしてさらに驚くべきことに、取り立てて言及するほどの、マイナス方向への熱量すら無い。
    快・不快、そのどちらも観客は味わうことが許されない。そこにあるのは、無味乾燥で荒涼とした不毛な空間のみであり、観客はそこに幽閉される。これを、キリスト教の世界では「煉獄」と呼ぶ。
    『借りぐらしのアリエッティ』は、観客にとって「煉獄」である。




    心臓病の少年が、手術までの数日の期間を過ごすために、おばさんの屋敷に到着するあたりから、物語は始まる。
    少年が、その屋敷のあまり手入れされていない庭を見渡す(横長の背景画をカメラが移動する)ところが、冒頭における最初の見せ場になっている。
    この作品の美術メインスタッフは、以前からスタジオジブリで高畑・宮崎監督作において仕事をしてきた武重洋二と吉田昇で、とくに今回は、よりリアルな世界の構築を目指したらしい。
    ここはいかにもスタジオジブリと思わせる詳細な描き込みの量で、その手描きの頑張り、またシソの葉の鮮やかな赤紫色などはとても美しい絶妙な色合いで、そのような意味において、この箇所はなんとなく豪華なように思わされるのだが、そこには何かひっかかるものがあった。
    冒頭の一連のシークエンスを最後まで見れば分かるのだが、それら頑張りというのが、とくに何かの意味を印象付けることにはつながっていないのだ。
    野生のミニチュアを感じさせる庭、和洋折衷のノスタルジックな屋敷の描写には、否応なく『となりのトトロ』を想起させられるのだが、『となりのトトロ』では、それが主人公の子供達にとってのワンダーランドとして描かれ、子供の観客はその視点に立つことで楽しめたし、大人の観客にとっては子供の頃の郷愁を感じさせられるような演出が、多くの場面において施されていたことを思い出して欲しい。
    それに対し、今回の庭や屋敷というのは、ただ庭であり屋敷だ。ここでは、「詳細に描き込んでるな」という以上の印象を持たない。
    何故かというと、絵がリアリティに傾いていることで、アニメーション独特の誇張表現があまり見られないという問題がある。きれいといっても、それは理想化されたきれいさという程でもないし、荒れ放題だという強調もそれほど感じられず、郷愁もたいして無く、屋敷に興味が惹かれるというほどでもない。
    ここで制作者が何をしたかったかというと、おそらく小人(こびと)が登場する前に、前もってリアルな世界を見せておいて、現実の中に奇跡が表れてくるという布石を打っておきたかったのだろう。
    しかし、やはりそこには、それほどリアルさを強調しようと苦心したような、絵的な工夫は見られない。
    演出も同じで、機械的なカメラワークには、観客に何かを感じさせようとするような強い意志を感じられないのだ。

    その無味乾燥な雰囲気に拍車をかけるのは、ここで小人を発見したときの、少年のリアクションの薄さである。
    信じ難いことに、少年はここで一瞬驚いた表情を見せるだけで、「ふーん…」という感じで立ち去ってしまうのだ…小人を見たのに!初めてこのシークエンスを見る観客に、「この少年って、わりとよく小人を見ているのかしら」という誤読を起こさせる意味不明の箇所である。
    もしかして、重い心臓病を患っていることが原因で、周囲の色々なものに無感動になっている…ということなのかもしれないと思ったが、べつにそういうわけでもないようだし、そうならそうで、そう分かるように演出するべきだ。
    もう、これら一連のシーンを見るだけで「この映画、なにかやばい」と思わせてくれる。
    驚くことに、このような意図がしっかり読み取れないような曖昧な演出が、『借りぐらしのアリエッティ』全体に通底しているのである。




    その直後、流れるように、屋敷の床下に住む小人の生活に視点は移る。
    ここは脚本の不備があって、あまりに早く小人の住まいなどの全貌が紹介されてしまうために、神秘性がまるで感じられなくなってしまっている。
    床下の前に、まずは屋敷の内部(人間の生活スペース)を描写しなければならないはずだが、これが逆転しているために、「床下にはこんなものが住んでいた…!」という、『借りぐらしのアリエッティ』という作品にもともとあっただろう、面白さのポテンシャルをスポイルしている。
    おばさんが「父が昔、この屋敷で小人を見たのよ」という話を少年にするのは、なんと中盤である。アリエッティ達の生活の紹介をするのは、その話を少年が聞いた後じゃないと、絶対におかしい。もう序盤で完全に解かれている謎に、観客は中盤でつき合わされなければならないからである。
    これは、『となりのトトロ』で、いきなりトトロの巣から物語が始まるようなものだ。もはやここでは、まともな神経で作劇をしていないことが分かる。
    それでも、どうしても最初から小人の側で物語を展開したいのであれば、少年視点の冒頭はカットすべきだろう。

    ここで少し面白いと思うのは、彼ら小人が欧風の人種で、欧風の文化を持っているという点だ。
    もともと本作は「床下の小人たち」というイギリスの小説を原作としているので、その設定をそのまま日本に持ち込むということを選択したおかげで、日本の家庭の床下に洋風の暮らしがあるという、ある種の異化効果的面白さを生んでいる。
    ただしその狙いが台無しになっていると思うのは、比較的長く描写される屋敷のリビングや少年の寝ている部屋が洋風であるために、生活の対比の面白がほぼ無くなっているのだ。
    日本を舞台にして、人間側を日本人にしたのは、おそらく観客が親近感を持つように、また、日本のクリエイターが作るという意味を持たせたかったからだろうが、この古びた洋館にお手伝いさん付きで暮らしているキャラクター達に、観客が果たして親しみを持つだろうか?
    異化効果の面白さをどんどん追って、アイディアを出せないようであれば、単純にイギリスを舞台に作った方がはるかに都合がいいだろう。
    また、亡くなったジブリのアニメーター、監督であった近藤喜文に大きな影響を与え、現在のジブリの絵柄の基になっている漫画家、高野文子の作品に「東京コロポックル」という、やはり小人が人間に気づかれず生活しているものがあって、これを映画化した方が、自然だし、面白いものになったのではないかと想像される。

    小人の居住空間は、布切れや、雑誌の切り抜きを壁紙にしていたり、視覚的には一見カラフルで楽しげだが、そこから具体的な生活の面白さを観客に感じさせるような領域までには至っていず、小人独特の文化的特色がないのも残念だ。
    また、高畑勲や宮崎駿が、「赤毛のアン」や「アルプスの少女ハイジ」などの作品で描いたような感動をそこに全く見出せないのは、ディテールへのこだわりが薄く、構図や演技などの工夫がそこにほとんど見られないからだ。
    それは、この作品の見所のひとつであるドールハウスも同様である。なんとか画面を豪華に見せたいという意識の方が強く、肝心なビクトリア調独特の品の良さとか、人形愛好家的なフェティッシュが、そこにはたいして見られない。
    家政婦のハルさんがこれを見て「細かい…!」と感想を言うシーンがあるが、本当に、「細かい」という以外、何の印象も持たない、ただの背景だ。
    つまり、ここでの背景は豪華な書割という意味でしかなく、細かく描き込んでいけばいくほど、その裏の空疎さが露呈され、キャラクターの絵との齟齬も強まってしまうという弊害すら発生している。
    さらにそれが表面的に高畑演出、宮崎コンテをなぞっているために、絶望的な実力差が感じられ、あくまで優れた演出家や、非凡なアニメーターが関わっていない『借りぐらしのアリエッティ』は、ただ丁寧な絵づくりをするだけの集団が作った、劣化粗悪品だという事実がこのあたりでハッキリと分かる。
    だが、一見それがきれいに豪華に見えてしまうだけに、ひどくタチが悪いのである。パッケージだけ豪華な美味しくないお菓子のようなもので、ある種の詐欺だな、と思う。



    アリエッティが帰宅すると、彼女の母親の小人が登場する。彼女は13歳の娘を持つ女性のわりにはちょっと老けていて、初老とすら感じられるのだが、おかしなことに、ワンピースの丈が少し短く、膝下の生脚を露出しているのが非常に気になる。
    小人ならではの服のデザインがそのようであれば納得も出来るのだが、彼らは人間とほとんど変わらない服装をしているため、この箇所は奇異に映ってしまう。
    ファッションセンスについては、この作品は総じて変で、例えば少年のおばさん(年齢的にはおばあさん)が、屋敷の内でも外でも、胸元にブローチのついた巨大なリボンをしていたのも、違和感を感じた部分だ。
    彼女達は屋敷の中で、その乙女風のセンスを一体誰にアピールしているのだろうか。さらにこの作品では、主人公達以外のキャラクターの服は全編を通して固定されているため、観客はいやでも最後までこの服につき合わされなければならないのも難点である。
    これらは、『何がジェーンに起こったか?』に相通じるような狂気を無駄に感じてしまい、鑑賞の際のノイズになってしまう。
    その後、ドアを開ける物音がして、アリエッティの「あ、お父さんだわ!」という舞台演劇風の不自然な演技とともに、父親の小人が登場するのだが、一見物静かに見える彼も、また不可解なキャラクターだ。それは後述する。



    「今夜は初めての『借り』よ!うーんと練習してきたんだもん」と、嬉しそうに母親に語るアリエッティ。
    狩り=借り …というのは言葉の遊びなのだが、彼ら小人は、人間から食べ物、生活日用品、衣料や家具の材料など、夜になると家の中を物色し、いろいろなものを「借り」て生活しているということが分かってくる。
    借りるというといいように聞こえるのだが、人間の目から見ると、「借り」ではもちろんないばかりか、「狩り」ですらない、空き巣に近い犯罪行為に見えてしまうのだが、これについても後述する。

    両親がふたりきりでお茶を飲むシーンは印象的だ。
    「アリエッティももうすぐ14歳だ…私達に何かあったら、一人で生きていかなければならない」と、娘の将来を思いやるセリフをお父さんが言った直後、お母さんは砂糖の壺を開ける。
    砂糖はもう小さな数欠片しか残っていない。砂糖は「借り」が難しく、貴重なのだ。
    その最後の砂糖の欠片を、お母さんは迷わずかき集めて、断りもなく、全部自分のお茶に入れてしまう。
    これで思い出すのは、『火垂るの墓』で、親戚のおばさんがおにぎりを握ったときに、手に付いた米をなめるシーンだ。倫理的には別に問題はないだろう描写だけど、品性の無さ、優しさの無さというのが、何気ない生活の動きだからこそ感じられてしまう箇所だと思う。
    制作者が意図したものではないだろうが、娘を心配するようなムードのときにそのような行動をすることで、この家庭に、物資的貧困以上の、何か深刻な問題があるように見えてしまうのは、この後のストーリー展開を考えると、非常にまずい。
    ここでは、お母さんが、最後の砂糖だということが分かったときに、壺のふたを閉じて、テーブルの中央にそれを戻すことで、娘への間接的な愛情表現を示すことを、演出としてできるはずなのに、本当にもったいない。
    というか、もうお茶くらいストレートで飲めよ、というふうに思ってしまう。

    ともあれ、アリエッティが待ちに待った、「借り」デビューするという夜が、今夜だったのである。
    自室のベッドに、「借り」をするときの服の候補を並べるアリエッティ。
    ここでまた不思議に思うのは、カメラが移動し、その服の候補、「つなぎ」、「ミニのチャイナ服」、「赤いワンピース」が順々に写される部分だ。
    さすがに、肌を露出しまくる「ミニのチャイナ服」はないだろう。これは多くの観客が分からなかったかもしれないが、どうもギャグ描写のようである。
    つまり、よくここを観察すると、「つなぎは地味すぎてヒロインにふさわしくないよね」、「ミニのチャイナ服は不必要にセクシーすぎてありえないよね」、「赤いワンピース、やっぱりこのあたりか…さすがにヒロインだもんね」という三段落ちのようなのである。しかし、ここはカメラの動きが早すぎて、全く観客に伝わらない。
    ここで観客に笑ってもらうには、実際にアリエッティに鏡の前で変な服を着せてみせるしかないだろう。
    こういうのがギャグと思っている認識であるということと、「観客をなんとか工夫して楽しませよう、嬉しがらせよう」という姿勢の欠如はずっと通底していて、ユーモアがユーモアとして見えない、という箇所が山ほどあるのが、『借りぐらしのアリエッティ』だ。私が「煉獄」と表現した意味が分かってきただろうか。
    例えば、スタジオジブリの高畑監督が日本に紹介したような、『ベルヴィル・ランデブー』のシルヴァン・ショメや、『キリクと魔女』のミシェル・オスロは、エスプリの利いた、卓越したユーモアセンスの持ち主だが、そういうのに届くようなものを求めるわけではなく、ただベタなギャグでも、最低限笑える箇所はいくつか用意しておくべきである。ハッキリ言って、この映画で笑える箇所は、演出上失敗した部分のみだ。
    宮崎監督の『千と千尋の神隠し』は、漫画的楽しさに満ち溢れていて、上映中周囲の子供が歓声を上げるほど大喜びをしていて、こちらまで嬉しくなったものだが、『借りぐらしのアリエッティ』は、最後まで観客席が静まっていた上に、上映終了後、「もう終わりなのー?」という、不満そうな子供の声がしたのを覚えている。対象年齢が少し高く設定されているとはいえ、これはさすがにあんまりだ。
    これが、米林宏昌監督の「異常ともいえるユーモアの無さ」である。

    また、ここでやっと登場してくれる、アリエッティを象徴するアイテムが赤い髪留めなのだが、重要なアイテムのわりに、これは良く分からない代物である。
    どうも洗濯ばさみを髪留めとして使用しているようで、これも一種のユーモア的表現なのかもしれないが、こんな小さな洗濯ばさみなどあり得ないので、バネのついた謎の工業製品として認識する他ない。これもユーモアがユーモアとして成立していない部分だ。
    さらに、サイズ感があやふやで良く分からないというのは、この作品においては致命的だろう。人間と小人のサイズの違い、世界観の違いというのが、このような物語においては、面白さの源泉になるはずだからである。
    加えて、先述した目立つ赤いワンピースを選んだことを見咎めて、「その色はやめた方がいいんじゃない?」とお母さんが忠告したときに、「もう決めたことなの」とアリエッティがひとこと言って、それで両親も納得してしまう描写も説明不足だ。「スタジオジブリの色指定のスタッフが決めたことなの」「そうか、それなら仕方ない」と言ってるように聞こえる。
    同時に、自分や家族の生死に関わる「借り」において、わざわざ目立つ色や、動きにくそうなワンピースを選択しているヒロインにフラストレーションが溜まってしまう箇所でもある。


    実際に「借り」のシーンが始まり、やっとエンターテイメント性が出てくるのかと思ったら、ここから始まる冒険も驚くほど地味で、何も面白くないし、わけが分からない部分も多い。
    例えば、最初にゴキブリに襲われるシーンがあるが、一瞬で撃退されてしまうゴキブリは、一体何の動機があって後ろから近づいて来たのかが謎だし、ここで父親が、戦っている娘に気づかないのか何か分からないが、どんどん先に進んでいくのも変だ。
    このあたりは、なにせ自分と同じくらいのサイズのゴキブリが出てくるので、大体誰が演出してもすごく面白い見せ場になり得るはずと思う。
    例えばゴキブリをめちゃくちゃ恐く気持ち悪く描けば、観客が悲鳴を上げたり、子供が多少トラウマになったり、逆に大喜びするかもしれない。または意外にキュートに描いて意表をつくとか、どちらにしても、ゴキブリというのはかなり観客の熱量を上げられる存在なのに、それを何かどっちつかずの、無味なロボットのように描いてしまっていて、その絶妙に一番つまらない選択をしてしまうデザインや演出センスには驚かされるほか無い。
    アリエッティはこの後、少年に見つかってしまうのだが、その際のお父さんのリアクションも実に不可解だ。慎重すぎるほど人間への警戒を強調していたのだから、ここは娘の盾になりながら、先に逃がすべきではないだろうか。やはりここでも彼は、「あ、そうですか、そうですね…」という雰囲気で、一応は多少振り返りはするものの、娘の先を悠然と歩いていく。


    「借り」のシークエンスでは、小人から見た新鮮な視点での人間の生活の面白さや、アリエッティが初めて経験する事態で危機に陥ったり、いろんな失敗をして観客を笑わせたり、とにかく思いつく限りのアイディアを考え、これでもかと盛り込むべきではないかと思う。
    例えば、お父さんが娘にいいところを見せようとしてハッスルした結果死にそうになったり、戦利品をふたりでいっぱい抱えて「ウシシシ・・・」と笑い合ったり、アリエッティがドッサリと角砂糖をポケット入れて、体じゅうモコモコになってるのをお父さんに怒られたり、宮崎駿ならそういうことをいっぱいやるはずなのに、ここでも一切、楽しいと思わせるような何かが存在しない。
    信じ難いのだが、ここでアリエッティがこんなことを言う。
    「お父さん、借りって楽しいね!」
    何にも楽しくないシーンの中で、「楽しい」という語句をキャラクターに言わせることによって、少しでも楽しく見せようという実験的試みが、ここでは見られる。

    このような、小さな生物が人間世界に紛れ込むような表現でお手本になるのが、ディズニーのクラシック・短編アニメーション、名作「田舎のねずみ」だ。
    たった10分にも満たない古い古い作品なのに、こちらの方が100億万倍面白い。



    キャラクターの愛らしさ、優れたデザイン性、性格の描き分け、ワクワク感、コメディ・センス、尽きることの無い豊富なアイディア、そして何より、観客を喜ばせようとする姿勢など、「田舎のねずみ」には、『借りぐらしのアリエッティ』に足りない全てがある。
    このことで感じるのは、基本的にこのようなアニメーション、とりわけエンターテイメント性があったり、アドヴェンチャー表現があるような作品は、頭にギッシリと面白いアイディアが詰まっているような、面白い人達が作るべきものではないかということだ。
    それはもちろん、ギャグをいちいち挿入しろということではなく、作品作りにはあらゆる方向での工夫やユーモアが必要とされる、という意味においてである。
    描きこみ量など、あまり意味の無い部分での努力しか評価できない『借りぐらしのアリエッティ』に、本質的なクリエイティヴィティは皆無だ。
    これは、宮崎駿監督のテイストをブレンドして、「ただそれっぽいものを作るという」事務作業であり、完成したものは芸術とも通俗娯楽とも無縁の、ビジネス・ツールに過ぎない。
    しかし、この作品における異常性は、それのみにとどまらない。
    明らかに全てが手抜きの子供だましの作品でさえ、監督や作り手の持ち味や哲学というのが、ある程度反映するものなのに、ここでは、「演出がことごとく全て失敗している」という特殊性以外に、何らかの個性、芸術への野心、功名心、サービス精神すら見られず、ここまでそのような無味乾燥とした幽霊のような態度が徹底してしまっているのを見ていると、ある種の情緒的な病理さえ感じさせる。同じように演出が全て失敗した『ゲド戦記』ですら、すごいものを作ってやるという気概だけは感じたのに。
    米林宏昌監督は、『千と千尋の神隠し』に登場した、妖怪「カオナシ」のモデルであるらしい。「あっ、あっ」って言いながら、主人公の後をただついてくる、あれである。そういう話を聞くと、なるほどと思う。
    宮崎監督は本作を評価したらしいから、もしかしたら、これでも米林監督にしては健闘したように見えたのかもしれない。


    少年とアリエッティが野原で議論するシーンは、本作品中最も不可解だといえるだろう。
    まず、一番奇異なのは、突然少年がしたり顔で、にやにや笑いながら「君たちは滅びゆく種族なんだ…」と言い出すところだ。
    最初このシーンを観たときにものすごく不自然で唐突だったので、ちょっと「おっ」と思った。この作品において、初めて想像を逸脱するような展開が始まったからだ。
    しかし、何故かその後、ラストまでこの伏線は回収されない。
    あまりにも不思議なので、調べてみると、どうも原作の設定では、もともと少年はもっと幼い年齢であり、アリエッティとの幼稚な口げんかの中で、そのようなセリフを思わず言ってしまうというのだ。
    だから、今回は少年の年齢が上がったことで、セリフの意図するところを変えたということなのだろうが、ここの変更のせいで、物語が無意味に複雑化したばかりか、少年のパーソナリティの不気味さに、観客が警戒を覚えるようになってしまっているのではないだろうか。
    ただでさえ何となく腹に一物持っていそうな、どこか気持ちの悪い雰囲気を持った少年なのに、いきなり脈絡もなく「お前は滅びる」と指摘するのである。
    それに対し、アリエッティが反射的に大粒の涙をボロボロとこぼしたのもびっくりする。
    おそらく、これはくやしくて泣いているのではなく、自分の種を案じた悲しみの涙と解釈したのだが、何にしても、芸人の瞬間涙芸じゃないのだから、こんなに間髪入れず泣き出すというのは不自然すぎる。
    このあたりの会話は、言ってることも、それに対するリアクションもかみ合わずガタガタなために、せっかくテーマらしきことを言ってるような雰囲気なのに、情報が全く頭に入ってこず、混乱するばかりだ。
    人気を少しでも取ろうとしたのか、ジャニーズ系タレントを無理に出演させ、おかしなキャスティングでめちゃくちゃになった実写作品の例と、同じような結果になっているのは面白い。

    ここの会話でも出てくる「借りぐらし」という表現に、何となく嫌なものを感じてしまうのは、まず借りているのではなく泥棒をしているという行動、そして何もお返しをしないにも関わらず、あくまで「借り」というポジティブな表現をしている卑怯さ、このダブルパンチが原因なのだが、それがここでせっかく弁明のチャンスを与えられてるにも関わらず、やはり曖昧なやりとりだけで終わってしまっている。
    ここでは「借り」の本質について、ある程度議論することが必要なのではないか。
    例えば、「あなたたち人間だって、自然にあるものを借りてるだけじゃないの!土地も、木の実も、家畜やペットだってそうよ、それを自分達だけが所有して自分だけのものにしていると思ってる方が、よっぽど傲慢よ!」
    こういう類のセリフを言わせれば、この嫌な感じは、ある程度解決されるのではないだろうか。


    主人公のアリエッティは、キャラクターの造形も、内面的にも、工夫や面白味に欠けるキャラクターだ。
    真面目さを強調したかったのか分からないが、「家族を危険にさらしたことへの罪悪感」と、「家族を助けなければいけないという義務感」だけがその心を支配しているように見えるため、彼女が生き生きとしているように見えるのは冒頭のみで、その後は全編を通して暗く険しい表情しか見せない。これほど陰気ではさすがに、好きになりようがない。
    そして、その内にあるべき、活発さ、ユーモア、恋心、観客がシンパシーを感じるようなエキセントリックさなど、これらがひとつとしてしっかりと描写されないため、作品全体まで陰鬱でつまらない印象を与える結果になっている。
    それにしても、アリエッティをひっくるめて、この小人家族の団欒は、何一つ楽しくなさそうに見えるのがすごい。
    暗く険しい顔をした娘と、酷薄な父親と、最後の砂糖を食べてしまった幼児的で生脚を出した母親が、ハウス食品のCMの真似事をする食卓は、もはや悪夢的とすらいえるだろう。

    14歳になるくらいの年頃は、大人の入り口に達した子供であるはずで、基本的には子供っぽい部分を多分に残したキャラクターでなければならず、そういう部分を描いてこそ成長を描いたことになるはずなのではないだろうか。
    そして成長を描くには、「子供であるが故の大きな失敗」、または「大人になることで子供性が揺るがされる」ような、強い経験を経なければならない。
    『魔女の宅急便』でも、「飛べなくなる」という象徴的試練を経て大人へのトンネルを抜けたキキは、満面の笑みを取り戻していたはずだ。

    試練というハードルも、恋愛描写もおざなりにしてしまったせいで、クライマックスで少年が、「君は、僕の心臓の一部だ」と言う少年のセリフに共感できた観客はほとんどいないだろう。これでは、ただキザなことを言いたくなっただけのマセガキのようにしか見えない。
    このへんはもうストーリー的に相当にどうしようもなくなっていたのだろう、、そろそろ尺が来たので、とにかく終わらせようとキャラクターがそれぞれ動いているように見える。
    まるで、送別会だから一応、感動的なセリフを言うだけは言うが、本心は何も思ってないみたいな、キャラクターに敗残処理をやらせている箇所である。




    この作品は、ほぼ全ての演出が間違っているが、最も失敗していて、背筋が凍り付きそうになるのは、家政婦「ハルさん」にまつわるあれこれであろう。
    この家政婦は、小人を捕まえようとたくらむ、いわゆる悪役なのだが、ここに全ての悪、醜悪さを押し付けているように、彼女はひたすらに劣悪な人間として描かれている。
    ハルさんは異常に執拗に、結構な尺を取って、そのアクションが描かれている。
    おそらくは、声をあてる樹木希林の、コメディエンヌ的な雰囲気を描きたかったのだろうが、これがひたすら、ただ醜悪でしかない。
    例えば、アリエッティのお母さんを捕らえてビンに入れ、そこにラップをかぶせ、意気揚々と棚につまようじを取りに行き、つまようじを手に入れて戻ってきて、ラップに穴を開ける。
    ただビンに入れるだけのシーンなのに、ここまでの段取りを必要とするのである。そんなのどうでもいいよ。
    また、ハルさんが失態を見せる一連のシークエンスは、これ以上にあまりにも長すぎて、本当にウンザリさせられる。最後には痴呆症のリアルな描写にしか見えないので、爽快感も何も無いのは、相当に後味が悪くキツい。
    さらに、笑いを取りたいのか、いちいち変な、小津とかデヴィッド・リンチの演出作のような、演技の間(ま)があるのは、こういう作品の場合、拷問ですらあると思う。
    こんな気持ち悪いキャラクターの演技を延々と見たくはないというのが本音なのだが、しかし言い方を変えると、これは煉獄に咲く、一輪の花のようにも見えてこないこともない。ゴミのような描写だが、こういうシーンしか、この不毛な煉獄の世界では、もはやとっかかりがないのだから。

    悪しざまに言い過ぎたので、最後にひとつ、監督のフォローをしたい。
    屋敷を脱出してへとへとになったアリエッティのお母さんが、川で落ち合うことになっていた、「未来少年コナン」に出てくるジムシーの劣化版のような野生少年に、「スピラー!」って手を振るんだけど、あんな風に手を振る人を、私は見たことが無い。あれは、チンパンジーかなんかの手の振り方だと思う。
    さすがに変だと気づいてるんだろうけれど、これが高畑・宮崎作品であるならば、スタッフは半泣きになって何度もリテイクをやらされるだろう。
    演出家としては、ジブリの若手と比較すればはるかに実力があっただろう細田守を、スタッフ達が『ハウルの動く城』制作時に追い出して、その後を宮崎が引き継いだというエピソードがあるスタジオジブリの内情がどうなっているか、想像する他はないが、あの手の振り方にリテイクを出せない権限のなか、よく最後までつくりあげたなと思う。


    ■追記:
    エンドクレジット後のラストカットの意味について、初見時の私を含め、よく分からなかった方が多いようです。
    何度か確認しましたが、あれは屋敷の敷地の建物などを、裏側から見た風景(冒頭で描写された屋敷の逆側)です。
    あれを最後に持ってきた理由は、「自分の住処を離れることはつらいけれど、この景色は、それを成し遂げなければ見られないものだ、だから成長することは大事なんだよ」ということを伝えたいのかな、と分析しました。
    でもあの時点ではアリエッティはもう遠くに行っていますし、あの建物(はなれ)は対称的な、上から見ると正多角形になっているため、裏側から見ても、表側とおんなじ様にしか見えません。全く伝わってこないし、感動もありません。

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    『ミッション:8ミニッツ』は、非常に入り組んだ設定が用意されたストーリーで、一回観ただけではその全貌がよく分からず、ともすれば大きな矛盾を感じるかもしれない。
    私も当初、日本の配給会社による宣伝文句、「映画通ほどダマされる」という意味がよく分からなかったのだが、この映画に何回か登場した「量子力学」について興味を持ち、そのサワリを調べることによって、なんとかストーリーの全貌が把握できたように思う。
    これを読んでいる方は、ちょっと面倒とは思うけれど、そのあたりについて、かなり入り組んだ説明をするために、まず作品の筋と設定をおさらいするところからつきあっていただきたいと思う。



    米軍の任務として、アフガンで戦闘ヘリを操縦していたコルターは、気がつくと見知らぬ列車に乗っていた。
    自分の置かれている状況を確認しようと、周囲の人間に話しかけてみる。どうも今乗っているのは、もうすぐシカゴに着く予定の、走行中の列車であるらしい。
    向かいに座っている、自分を知っているそぶりを見せる、しかしこちら側は見知っていない女は、自分のことを「ショーン」と呼んだ。
    混乱したコルターが列車内の洗面所に行き、鏡に映った自分の顔を見て驚愕する。自分の顔ではない。
    その直後、列車は轟音とともに爆炎に包まれ、コルターを飲み込んだ。
    ここまで8分間の出来事。



    再び目覚めたコルター。今度は本来の姿に戻っていたが、同時に謎のカプセルの中に閉じ込められていることにも気づく。
    「これは包囲された城です」と声が聞こえる。モニターに映る女性。制服を着ているところを見ると、公的機関の職員のようだ。
    「コルター、分かりますか?今から言うトランプの札を順番に並べてください」
    コルターが答を言うと、女性は彼が正気であることを確認したのだろう、「爆弾と犯人を見つけ出せ」と命令する。

    また先ほどと同じ列車、同じ時間、同じ状況の中で目覚めるコルター。
    彼は、この8分の間に、爆弾魔の手がかりを発見し、これから起きるであろう、予告されたシカゴ大規模爆破テロ事件捜査の手がかりをつかむ任務を課されていたのだ。
    解決するまで何度も爆死し、何度も同じ時点、同じ地点に戻されるコルター。
    その間に、徐々に現在の状況についての隠された情報が明らかになっていく。

    コルターのミッションは、新しく開発された「ソース・コード」なる機械によって実現される世界が可能にするものである。
    実験施設の女性職員の上司である博士の説明によると、それは量子力学を基にした研究から生まれたプログラムで、死者の脳に残されている8分間の記憶と、被験者の脳の回路をつなぎ、それらを「重ね合わせる」ことで、被験者に、死者の最期の8分間を体験させることができるというものらしい。
    これが画期的なのは、被験者はただ対象の記憶そのままを体験するのではなく、被験者独自の行動が可能だということである。
    つまり、ここには8分限定の「別の世界」が生まれていることになる。
    今回のケースでは、多くの乗客とともに爆死した被害者ショーンの記憶に、コルターの意識が重なられていたのだ。
    コルターはミッションの中で、一度クリスティーナ(自分のことをショーンと呼んだ女性)を列車から降ろし、爆発から彼女を助けている。
    しかし、博士はそれを「意味のないことだ」と言う。なぜならソース・コード内で人を死から救ったとしても、それはあくまで、この現実には関わらないことなのだと説明する。事実、コルターが目覚めた「現実」では、救ったはずの彼女は死亡している。
    博士いわく、「ソース・コードはタイム・トラベルではない」のである。

    また、コルターはついに、自分がアフガンで負傷し、現在、植物状態で研究室の延命装置の中にいるという衝撃的事実を発見することになる。
    謎のカプセルや健康に感じる自分の体は、自分が頭の中に作り出したイメージに過ぎず、彼はただ意識だけで、外界やショーンの記憶世界とつながっていたのだ。これはコルター本人にとっては絶望的状況である。
    コルターはそれを知ることで、ショーンとしての死ではなく、自分自身の本当の死を望むのだが、博士はそれを許さず、ミッションを完了した報酬として死を与えると約束する。



    かくして、さらに数度、試行錯誤の捜査を繰り返した結果、彼は爆弾魔の身元を突き止めることに成功し、現実世界のシカゴの住民が救われることで、ミッションは終わることになる。
    ここでコルターは意外な提案をする。「もう一度列車に戻って乗客を救いたい」…そして女性職員に、「8分経ったら延命装置をオフにしてくれ」と個人的に頼みこむ。
    彼は、ヴァーチャル・リアリティの中でハッピー・エンドを迎えた瞬間に自殺することを望んでいるのだろうか?
    列車に再び戻ったコルターは、今までの記憶を駆使し、鮮やかに犯人を捕縛し、爆弾を停止させ、乗客全員を救うことを初めて成功させる。
    8分が経つとき、彼はクリスティーナとキスをしていた。そこで、現実世界では延命装置が切られる。8分が経過し、全ての時間が止まる。



    …と思いきや、気がつくと彼の腕時計は8分後もその時を刻んでいる。彼の意識はショーンの記憶8分間を超えたのだ。一体何が起こったのか。
    現実と変わらぬシカゴの町並み。コルターは街のシンボルである、広場に置かれている鏡面の巨大な楕円形のオブジェクト、「クラウド・ゲート」の前でクリスティーナと佇んでいた…。
    「クラウド・ゲート」は、彼がショーンとして爆死する瞬間、意識のなかで何度も浮かんでいた幻影であった。
    「ここは僕達が望んだ世界なんだ、そう思わないかい?」
    鏡面はクリスティーナと、ショーンの姿、そしてシカゴの街を包み込むように映している。


    ここまでが、『ミッション:8ミニッツ』の、当初の脚本までのおおまかな内容である。
    本編ではもうちょっと続きがあるのだが、説明が複雑になるため、とりあえず、ここまでの内容について解説をするために、量子力学について、すごくかいつまんで説明したいと思う。ここも我慢して、よく知らない方は理解していただきたい。


    量子力学とは、物理化学の領域から、この世界はどうなっているかを探求していくアプローチのひとつであり、世界を最小単位から見直すという試みである。これは、本来それを必要としている物理化学分野以外にも、今日の数学、哲学の世界にまで影響を与えている概念である。

    私達自身、また私達のまわりに存在する物体(気体・固体・液体)は、電子顕微鏡で拡大して見ると、分子の組み合わせであり、分子は原子の組み合わせで出来ていることが分かっている。
    原子をさらに拡大すると、電子と原子核(陽子と中性子)によって構成されていることが分かっている。

    最小単位の物質を素粒子というが、これら原子を構成し、その原子をその原子たらしめる確定要素は、それらの組み合わせに過ぎない。
    例えば、目の前にあるトマトスープもダイヤモンドも、本質的には(最小単位として見た場合)、同じ材料(電子、陽子、中性子)の組み合わせが、そのかたちを作っているということ。
    つまり、目の前の物体は、これらシンプルな材料による「状態」の結果であるということなのである。
    ミクロの量子的な世界観をごく簡略的に言うと、このような感じである。

    電子は原子核の周りに確かに存在していて、それは太陽と、そのまわりを回る惑星のような関係である。
    しかし実験で電子の位置、それからそれがスピンしている方向を観測すると、その結果はまちまちであり、予測不能な結果を表すことが分かった。
    1900年代、このような結果を基に、量子力学の確立者、ニールス・ボーアは「それらはもともと不確定なものである」という、「コペンハーゲン解釈」を提唱した。
    その考えでは、電子は原子核の周囲のどこにでも、まるで幽霊のように存在し得る状態であり、それが上向きにスピンしているか、下向きにスピンしているかも、その現象が重なった状態であるとし、それらは観測を行ったときにはじめて、一点に収束し、その結果が観測できる、というものである。
    「コペンハーゲン解釈」は、宇宙も、量子の世界も包み込める、統一された物理的でシンプルな法則が存在する…というアインシュタインの考えと衝突し、論争を生んだ。

    物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、自身が量子力学の成立に尽力してきた一人であったが、このようなコペンハーゲン派(コペンハーゲン解釈を唱える研究者)の概念を、荒唐無稽なものであると批判した。
    その矛盾を指摘するためにシュレーディンガーは、マクロ世界にその考えを表現したらどうなるか、「シュレーディンガーの猫」という思考実験を発表することになるのである。




    まず、外からでは中身が確認できない箱を用意する。
    その中に、猫と毒ガス装置を入れる。
    毒ガス装置は特殊なもので、中に放射線を発生するラジウム原子が入っており、ラジウム原子から、一定時間に半々の確率で発生されるα波を検知した場合、猫に向かって毒ガスを排出する仕組みになっている。
    一定時間を過ぎて箱を開けたとき、もちろん猫が生きているか死んでいるかは、半々の確率である。

    もしコペンハーゲン解釈が正しければ、ラジウム原子がα波を出す・出さないという挙動は、結果を確認するまで「重なり合った状態」であるはずだ。
    だとすれば、自動的に毒ガス装置も、排出した・しないというふたつの状態が重なり合わなければならず、一緒に箱の中にいる猫も、生きている状態と死んでいる状態が重なり合っていることになる。
    そして、観測者が箱を開けた瞬間にそのふたつの猫は収束して、どちらかの状態であるひとつの猫に変化するということになる。


    『ミッション:8ミニッツ』で実行されているミッション、「包囲された城」は、整理すると、この「シュレーディンガーの猫」の思考実験と非常に符合する点が多く、これをモデルにしたものであることが分かるだろう。
    ちなみに、「包囲された城」は、同名のトランプゲーム(数字を連番で並べていく)のことであり、また、試行錯誤を重ねて正解へたどり着くミッションを表してもいるし、さらに「シュレーディンガーの猫」における「観測者と箱」の暗示という、トリプル・ミーニングが施されている。

    コルターが職員(観測者)と通信が出来ているときは、まだ猫が箱に入っていない状態と同じである。
    そして、コルターがソース・コードに進入するとき、観測者はコルターがどのような状態にあるか確認できない、つまり、「シュレーディンガーの猫」における箱の中に入った猫と同義となる。
    箱を開けるまで、コルターとショーンの脳は、劇中で博士が説明したとおり、「重なり合った状態」なのである。


    「シュレーディンガーの猫」の思考実験は、コペンハーゲン解釈の批判のみにとどまらず、重要な命題を後世まで残すことになってしまった。
    「では一体、箱を開ける前、猫はどうなっているのだろう?」

    プリンストン大学の大学院生、ヒュー・エヴェレット三世は、この命題に、非常に興味深いユニークな解決法を考え出した。その世界観が「多世界解釈」である。
    それは、複数の起こりうる結果(猫が死ぬ、生きる)があるとき、世界はそこで分岐し、そのぶんの複数の世界が生まれている、というものだ。
    つまり、電子を観測するときに、その位置やスピン状態の可能性ぶん世界は用意されており、また「シュレーディンガーの猫」が、生きている世界と死んでいる世界があり、観測者自身もその中に組み込まれている、よって、常にひとつの結果だけが観測されるという理屈だ。
    『ミッション:8ミニッツ』でいうならば、「包囲された城」は、じつは観測者達自身も、多世界の中のひとつの世界という「城」の中で包囲されていたのである。
    その解釈が正しかった場合、もちろん世界はいろいろな結果の組み合わせにより、ほとんど無限に存在していることになる。

    「多世界解釈」をあてはめれば、『ミッション:8ミニッツ』のストーリーのつじつまは、ほぼ全て解消されるだろう。
    つまり、コルターが体験した回数ぶん世界は分岐したことになるのだが、重要なのは、その結果だ。
    コルターがどう動いたとしても、爆発が起こって列車の乗員が全て死んでしまえば、当初の結果と全く同じことで、乗客は死に、コルターはミッションを請け負う世界を回避できないのである(クリスティーナひとりを救ってショーンが死んだケースは、結末が予想できないが、爆発は起こり、何らかの形でミッションは行われただろう)。
    つまり爆発があったことで、分岐した世界がひとつに「収束」してしまう(またはマクロ的にはほぼ同じ結果の他世界が平行に存在する)のである。
    爆発が起こるか起こらないかが、ここでは重要なのである。
    つまり「爆弾を停止できるかどうか」が、「シュレーディンガーの猫」の思考実験における、α波が放出する・しないと同義であり、「爆発」が、毒ガスの噴出といえる。
    爆発が起きてショーン(猫)が死ねば、コルターとショーンの重ねられた脳から、コルターが帰還するという道理である。
    また、ショーン(猫)が健在ならば、8分間を超えて、コルターはショーンとして生きることが出来るのである。


    ミッション終了後のコルターの意外な提案…「もう一度列車に戻って乗客を救いたい」というのは、コルターが劇中で言うように、「量子論を理解している」、そしてミッション中の直感からこそ思いついた、「新しい世界を創出する」という試みだったのである。
    この決断は、8分を超えて、今の自分自身が生き残るという確信の上で成り立ったものではなかっただろう、あくまで彼には、より良い世界をひとつでも存在させたいという想いがあったのではないだろうか。
    もちろん、全ての世界が救われるわけではない。
    実際にコルターのいた世界では、コルターは死亡し、それに加担した女性職員は、自殺幇助で逮捕されるはずで、そのこと自体は変わらない。
    「離婚した君、離婚しなかった君も存在するはずだろう?」と、彼女に通信したコルターは、このことを言いたかったはずだ。
    コルターは、現実世界ではシカゴの街を救うのみにとどまった。しかし、彼がショーンとして成り代わったもうひとつの現実世界では、乗客も、クリスティーナも、女性職員も、また、研究室に置かれているコルター自身をも救ったことになる。

    「ここは僕達が望んだ世界なんだ、そう思わないかい?」
    コルターがクラウド・ゲートに映った自分自身の姿を何度も幻視したのは、コルター自身が望んだヴィジュアルの投影、唯一のハッピーな世界だったのである(ただ、実際はショーンの姿のままであったが)。


    この楕円球のオブジェ、「クラウド・ゲート」にはどのような意味があるだろうか?
    内部に入ると、光の複雑な屈折により自分の姿がいくつにも分かれているように見える、また外側から見ると、自分と世界が一つの球であるように包み込まれて(収束され)見える。
    つまり、自分のいる世界はひとつである、またその裏側には、様々な他世界が平行して存在する、ということを、ふたつのカットだけで表現した、非常に見事な演出であり、このシーンが『ミッション:8ミニッツ』の全貌を一番分かりやすく表しているのではないだろうか。
    それは、今、自分の存在する世界は、自分自身が選び取った世界であり、より良い世界を選び取る、選択することには意味があるのだという、ポジティブなメッセージに収斂されるのである。だからこのシーンは、感動的な音楽が加えられている。

    ちなみに、数学の世界に、「モジュラー形式」という複素解析的函数の複雑な計算式があり、また「楕円曲線」という代数構造がある。
    「すべての楕円曲線はモジュラーである」というのは、谷山・志村予想という、日本人が唱え、「フェルマーの最終定理」を解くために利用された有名な数学定理だが、楕円の中に複雑な像を結ぶクラウド・ゲートの構造が、これに呼応しているように見えるのは面白い。


    そして、映画本編にはこの続きがある。これは、映画化の際、監督や脚本家が合議の上つけ加えられた前日譚だという。
    劇中でコルターは、女性職員にメールをしていたが、そのメールを女性職員が受信したところで、それは始まる。
    それは、列車爆破事件のミッションが起きない、コルターがショーンとして生活を始めることになるだろう世界でのことである。
    女性職員は、アフガンでの戦闘で植物状態にあり、生存装置で生かされている、まだ何も知らないコルターに、初めて出会う。
    そこで観客に新たな疑問が生まれることになる。
    ここにコルターの意識があるのなら、今ショーンとして存在しているコルターの意識は何なのか。
    ひとつの世界にふたつの意識が存在している。これは、「重ね合わせ」ではないのか。
    ここに、重々しいサスペンス調の音楽がかぶさることで映画は終わるが、「多世界解釈」で全てが解決したわけではない、まだ先に何かがある、という不気味な余地を残して終わるという意味で、ここは非常にスリリングな展開になっているといえるだろう。
    しかし、このサスペンスは、もし「クラウド・ゲート」の前で映画が終わってしまえば、「あれ?じゃあ研究所のショーンの存在がおかしくなるよね…」という、観客の当然の疑問、当初からあった脚本の矛盾点の、苦肉の回収策なのだろう。
    しかしここをうまく乗り切る唯一のピースをはめたことは、この作品を成立させるのに大きな意味を持っていただろう、極めて優秀な処理であった。

    また、最近聞いた監督の発言によると、ハッピー・エンドで終わるのは、ショーンの精神を乗っ取って、唯一ショーンひとりを救えなかったことがひっかかっていて、申し訳なかったという意味もあったという。
    理詰めの脚本のなかに、このような優しいまなざしもあるというのは、とてもほほえましいと感じる点である。


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    早朝のごく短い時間帯に、「働くおっさん人形」、そして続編の「働くおっさん劇場」なるバラエティ番組が放送されていた。
    これは、素人のおっさんをメインにすえて、彼らにインタビューしたり、息止め競争やボウリングなど、様々なことに挑戦させ、そこで展開される不調法なリアクションを松本人志が笑い倒すという、実験的かつ悪趣味なものであった。


    番組では複数のおっさんが紹介されたが、その中でもはじめに紹介され、一番露出が多かったのが、今回『さや侍』の主演にも抜擢された野見隆明、通称「野見さん」だった。
    野見さんは、番組中での松本のインタビューにより、アール・グラージュという、怪しげなラッセンのイルカ絵などを売っているような会社で販売の職についているということが分かるのだが、「かなりの舌足らずで、不明瞭なことばかり言う彼に、果たして絵画販売の仕事など可能なのだろうか、ああいうのはおねえさんやイケメンが言葉巧みに、純朴な青年やマダムに高額ローンを組ませるものなのではないだろうか…」と視聴者が思っていると、のちに同番組の中で携帯電話の通話料金を滞納していることが暴露され、絵画販売の職を辞してしまったことが周知されるなど、度重なる失策で、結果的に視聴者の疑問を解消してくれるようなパーソナリティを持つ、いわば不器用な人、駄目な人だった。
    このことに限らず、野見さんを含めたおっさん達は、よく自分を取り繕うとし、自分の境遇について、話をおおげさに言ったり、ときにはすぐバレるような嘘をついては、松本にしつこく追求されていた。
    何故このような不恰好なことになってしまうのかというと、「おっさんは、見栄を張ってしまう」ものなのだからなのだろう。
    日本の社会は年功序列システムがあるため、社会的地位のないおっさんは、あらためて自分の境遇についてスポットライトが当てられると、「尊敬される対象になりえていない自分」が衆目にさらされるということに非常に恐怖し動揺し、そこで自分を大きく見せようとする。それは自己防衛本能からくる、社会的「鎧」だということがいえよう。
    そして松本は、その鎧が剥ぎ取られる瞬間を、笑いに転化させようとする。これは、もともと松本自身がコントで演じていた、うさんくさいオヤジの本物版というか、ドキュメンタリー版に近いアプローチである。
    またそれはある種の社会風刺であり、人間の研究になっているようにも思える。


    松本は「働くおっさん人形」ソフトをリリースさせるときに、そのパッケージをアダルト・ヴィデオ風の扇情的な文句を表示させるという試みをしている。
    つまり自覚的に、「おっさんの鎧を剥ぎ取り、羞恥をさらけ出させる」ということを、「AV女優の衣服を剥ぎ取り、羞恥をさらけ出させる」ことと同義のものとしているのである。
    松本としてはこのような実験が成功したことだけでも十分だったのかもしれないが、おそらく彼にも意外だったのではないかと思うのだが、そのような、羞恥を人前にさらけ出すということが、番組が進行していくとともに、あたかも、一種、神性を帯び始めてくるのである。

    マグダラのマリアの例があるように、もともと、娼婦と聖女の類似性というのは、以前から世界的に広く語られてきた大テーマである。
    中世の敬虔な修道女の苦行の中には、例えば自発的に舌先で教会内の掃除をしたり、患者の腐った傷口から垂れる膿(うみ)に吸い付いたりするようなものもあった。
    そこに、ある種の抑圧された性的興奮があるのではと疑うのは自然なことだろう。
    聖なるものは性と結びつき、またそれは羞恥からくる興奮と結びつく。
    そして逆に、娼婦の仕事のなかにも、一種の「聖なるものへの献身」が見られるのである。
    そのような「聖なるもの」は、鎧が剥ぎ取られていき、恥をさらすおっさんの裸体に、少しずつ帯びていき、先述したふたつの番組が最終回を迎える頃には、彼らが、何らかの試練を乗り越えた聖者の姿にも見え出すのである。
    偶然ではあっても、ある意味で感動的な結末に至った「働くおっさん」シリーズは、閉塞したTV業界の番組の中にあって、無視できない功績を残したと言ってもいいだろう。


    さて上記のことを踏まえると、「働くおっさん」に比べ、本人に映画撮影をしているという旨を可能な限り隠したことでドキュメンタリー効果を維持しようと勤めた努力は見えるものの、格段にソフトで穏当に描かれる野見さん、また脚本も感情移入を狙ったオーソドックスな劇映画としての映画に落ち着いてしまった、『さや侍』への肩透かし感は非常に大きい。
    もちろんそこにはバラエティで描かれたような悪趣味さ、そしてその裏に浮かび上がってくる神性のようなものなど何もなかった。



    脚本は、監督である松本人志を含めた、松本と親交の深い放送作家や、本作にも出演しているコメディアンの板尾創路など、5人がかりで作られたものである。
    にも関わらず、この脚本が相当に低レベルなことに、まずは驚かされる。
    言わなければならないのは、脱藩した侍、「野見」が、追っ手に追われているという設定の間違いについてである。
    確かに江戸時代、脱藩した科(とが)により、刺客を差し向けられ殺されるという話はあって、そのようなエピソードは、映画でもよく題材にされた。
    しかし、あくまで脱藩者を捕らえようとするのは、脱藩された藩のみであるはずだし、それはあくまで他に知られないように、秘密裏に行われるはずだ。
    何故なら、脱藩者を殺そうとするのは藩の内部事情を外部に漏らされることを防ぐためであり、「脱藩されること」自体が、藩のメンツに泥を塗られることだからである。
    だが、野見を捕らえたのは「多幸藩」なる他藩の大勢の捕方であり、裁きもその多幸藩で行われることになる。
    多幸藩は、どういう目的で野見を捕まえるのか、何故身柄を元の藩に引き渡さないのか、そして何のために死罪にするのか、あまりに謎にまみれた展開である。
    加えて、各藩で指名手配にされたり、賞金首としてハンター達に追われたり、さらにわけが分からないことになっている。野見を殺したら誰が賞金を払ってくれるというのだろうか。

    これは瑣末なことではない。何故、追われるか。誰に追われるのか。ストーリーの基本設定であり、各登場人物の行動を説明するための、一番重要な部分だ。
    例えるなら、日本のヤクザが組を抜け出した罪で、シチリア島でマフィアに殺されるようなものである。
    脚本を手がけた5人ともが、おそらく江戸時代の知識と、西部劇の知識と、松本が好きでコントとしてパロディ化したような「子連れ狼」と、現代の日本の法律がごっちゃになっているのだろう、このような不自然な設定に気づきもしない無知さと、そのあたりのことを調べようともしない、観客を馬鹿にした態度には驚かされる。
    ちなみに、おそらくアイディアの素地にしたであろう、その小池一夫原作の劇画「子連れ狼」でも、主人公とその子供が江戸を離れ、命を狙われながらも放浪するわけだが、その理由には柳生一族の陰謀が絡んでいるわけで、おそらくそういった設定部分については、松本は飛ばして読んでいたのかもしれない。

    もし、「こんな設定はどうでもいい、リアリティを求めているわけではない」というのであれば、この作品の全てのシーンを、ナンセンス劇として真面目に捉えなくて良いということだし、そもそもの、時代劇を撮るという意味さえも瓦解してしまうだろう。
    当たり前だが、時代劇のストーリーというのは、誰にでも書けるものではない。その時代の社会的な知識や風俗に、最低限の造詣が求められるのである。
    「コメディだからこんなもんだ」と思っているのだとすれば、観客をあまりに馬鹿にしている。
    コント55号が主演したコメディ映画、『びっくり武士道』は、山本周五郎原作である。ここでは、しっかりと脱藩における辻褄が整理されている。
    脚本を手がけた5人とも、もちろんこの映画を誰も観ていないのだろうが、昨今、日本映画の質が落ちており、なかでも時代劇を撮ることのできる人材がほとんどいなくなっているのは周知の事実で、確かに難しい部分は多いはずだ。
    しかしまともに時代劇のドラマを練り上げるのであれば、最低でも、資料として可能な限り過去作に目を通し、また考証にも手間をかけるべきである。『さや侍』は、その最低限のことすら、まともに試行したあとが全く感じらない。

    もともと、野見が脱藩した直接の理由も、脚本の中ではしっかりと描かれず、謎である。
    先述の『びっくり武士道』では、池畑慎之介(ピーター)演じる小姓が、坂上二郎演じる侍に懸想(!)したために、やむ終えなく坂上が池畑を斬ってしまい、そのまま脱藩して逐電してしまう。これは苦もなく観客が納得できる(坂上に惚れるという部分が納得出来ないけれど)。
    だが、野見が脱藩したのは、「愛する妻が死んだから」という理由らしい。べつに、とくに殿様に殺されたとか、ひどい目に遭ったとか、そういうことでもないらしい。
    悲しみを、脱藩で表現したのである。
    これは、時代劇史上、最も意味の分からない脱藩の動機だといえよう。
    彼が自分や娘の命を危険にさらすというリスクを冒してまで、無断で突然に藩を抜け出さなければならない直接の理由はどこにもないはずだ。
    ストーリーの基本設定の破綻、主人公の意図の分からない行動、『さや侍』はこの時点で取り返しのつかない失策を犯しており、物語としての価値はほぼ無いと言っていい。


    では、ここで本来、松本は何を描こうとしたのか、ということを考えてみたい。
    まず、刀が無い侍、「さや」だけを持った侍というのは、「プライドだけは捨てられない男」のメタファーであり、それは松本自身もインタビューでそう言っている。そしてこれは、「働くおっさんシリーズ」の野見さんのことでもあるのだろう。
    事実、野見さんはいつも胸ポケットに、通話料金の滞納で通話できない携帯電話を差し込んでいる。
    ここで扱われている「さや」=「携帯電話」とは、彼の見栄の象徴だということなのである。
    だからさや侍が、笑わなくなった若君を笑わせるという「三十日の業」に挑み、娘や下っ端役人のアイディア通りのパフォーマンスをするという話は、慣れないバラエティに出演し、松本や構成作家の言うとおりのことをやらされた、過去の状況の再現でもあるのだろう。
    つまり、「働くおっさんシリーズ」でやり得た表現手法を、もう一度繰り返し、先述したようなある種の「神性」をあぶりだすことで、映画としての強度を強めようとしたのだろう。
    これは、「三十日の業」で使われた多くのネタ(シャドウ・ボクシングや生きタコとの格闘など)が、実際に「働くおっさんシリーズ」で既におっさん達がやらされていたということからも分かる。

    ストーリーが進むにつれて、「笑いを忘れた若君を笑わせる」という「三十日の業」の目的を果たすことは、非常に難しいことが分かってくる。
    何故なら若君は、母親を亡くしたことで笑わなくなったのであり、その欠落について何らかの対処をしないうちは、どれほど面白いものを見せたとしても、心が動くはずがないのだ。
    さや侍とその幼い娘は、業を進めてゆくうえで、そのことに気づきはじめる。
    娘は、若君の部屋に潜入し、母親への亡失の想いを断ち切ることが重要だと語りかける。同じことを娘自身も経験しているが故のアドバイスだろう。
    それ以降、若君には少しずつ変化が見られてくるのだが、三十日の業が終了に差しかかり、そのおぼつかない緩慢な精神の回復速度では、なかなか死罪までの期限には間に合いそうにないということが見えてくる。
    若君の父親である多幸藩の殿様も、そのことに気づいており、さや侍への返礼の気持ちから、群集らから若君の顔を隠すことで、「笑った」という既成事実を作ってやろうと、情けをかける。
    そこで意外なことに、さや侍は突然、自分の腹に短刀を突き立て、切腹を敢行する。腹を真一文字に開き、空っぽのさやに、その刀を差し入れ、果てた。


    この一連のエピソードは、何を意味するか。
    「さや」がプライドであるとするなら、そこに実体を入れることで、そこに本来の魂が戻ってきたと見るべきである。
    自分の娘に、「武士として本来あるべき姿」を見せることによって、親としての「善き後姿」を残すという意味、また、若君に対しても、同様のメッセージを与えることによって、困難を強く乗り越える力を与えるという効果を狙ったものなのだろう。
    つまり、ここまでの展開で観客が期待したような「笑わせること」、「笑いの本質は何か」という問題は描かれず、また時代劇によくあるような、現代的視点からの封建社会における価値観の打倒の意味も語られず、「不器用ながら、自分の与えられた本分(ここでは切腹をすること)を曲げず貫く矜持」というテーマを掲げているのである。

    しかしそこで観客の共感を拒むのは、この野見の自刃が、自分のナルシシズムを完遂するという意味が強すぎて、さらにそれが侍として、父親として、本当に本分であったのかが疑問だという点だろう。
    武家社会の封建制を受け入れて、それをとくに批判するような描写はないのでれば、野見が侍としての魂を取り戻し、全うすべきは「主君への奉公」であり、「一族(お家)の再興」であるはずだ。
    多幸藩は、野見にとっては他所の藩であるが、身柄を預けている以上、彼が本物の侍であるならば、主君に近い尊敬を持って接するべきである。それは、ひいては自分の藩の利益にもなるはずである。
    藩主の施しを受けることを良しとしない、という描写も見られたが、とんでもない、侍として主君に目をかけられ、俸禄をいただくことは、武人としての最大の誉なのである。
    これを拒否するという感情と、侍としてのプライドを取り戻すという感情は、論理的につながらない。
    さらに親としては、娘の今後について最大限の便宜をはかるべきだが、もちろん殿様の善意を裏切ったことでそんなものは無く、実際、身ひとつで彼女は寒空の下に放り出されることになってしまった。
    これは明らかに死の危機である。誰がこのような展開を望むというのか。
    愛妻、娘、殿様、若君、協力してくれた番人、民衆…そして観客、野見はそのいずれの感情も裏切るような行為に出た。
    つまり自分の感情を、他の全てに優先させるということで、これは当初、妻が死んで脱藩したという行為同様の、全くの独善的行為としてしか映らない。
    しかし映画としては、そういった決断ももちろん可能性としてあり得るだろう。問題は、それが何か大きな愛や娘との絆が深い故であったというような演出がなされているということである。
    この野見の決断について、観客に意図が伝わりづらいのは、「野見さんは(一般論として)本当に本当に本当にダメな人であり、普通の人が当然のこととして、冒頭の時点で決断しなければならないハードル(切腹)を飛び越えることすら困難である」という前提知識を、しっかりと映画の中で描いていないことからきているだろう。





    河原にて虚無僧が急に唄い出すシーン(松本作詞の「父から娘へ 〜さや侍の手紙〜」)についてだが、あれは明らかに、劇画「子連れ狼」のラストシーンのオマージュであり、言っていることは全く同じである。
    「子連れ狼」では、父が子に語ったことばがリフレインされる演出があるのだが、そこを虚無僧の唄としてアレンジを加えたのだろう。

    -「子連れ狼」最終話より-

    川は海に注ぎて波となる
    大きなうねりの波 小さなうねりの波
    寄せてはかえし絶ゆることはない
    人の生命もこの波に同じく
    生まれては生きて、死んではまた生まれる
    ほどなく父の五体はもの言わぬ屍(かばね)となろう
    だが父の生命は波に同じく 来世という岸頭に向かいて また生まれかわるべくうねっていく
    五体死すとも父の生命は不滅なのだ
    おまえの生命も然り
    我らの生命は絶ゆることなく永遠に不滅なのだ
    皮破るるとも血が噴くともうろたえるな
    父の五体倒るるもひるむな
    父の眼 閉じらるるとも 父の口ひらかぬともおそるるな
    生まれ変わりたる次の世でも 父は父
    次の次の世でも我が子はお前ぞッ
    わしらは永遠に不滅の父と子なり

    しかし、真似をするのであれば、表面的な演出だけにとどめるのでなく、最低でも、ある程度の父と子の関係・図式ごと真似しなければ、同様の感動など期待すべくもないし、文字通り取って付けたような違和感を強く感じることになってしまう。
    なにより、「子連れ狼」のラストを知らない観客にとっては、完全に意味不明の箇所である。
    私も大傑作「子連れ狼」に大感動して滂沱の涙を流したひとりとして、その箇所には抗議したい気持ちが強い。
    演出や脚本づくりというのは、考えに考え抜いて洗練させてゆくべきもので、そのように、他人の作ったテーマやシーンを、レゴ・ブロックを組み替えるだけで効果が期待できるようなお手軽なものだと思っているのだとすれば、ものづくりの要諦すら理解していないように思える。極めてお粗末だ。
    先人の作品を利用するということ自体は責められるべきことではないが、その場合は、元の作品の「魂を受け継ぐ」ことが重要である。
    もしそれができていれば、おそらく映画作りのアプローチのあり方そのものが、自動的に正しい方向に向くことだろう。


    松本人志の監督した前二作を思い返してみよう。『大日本人』、『しんぼる』とも、観客や批評家の反応が芳しくなかったという事実がある。
    それは様々なレヴェルにおいて観る者を満足させられなかったことが大きいからだが、最も本質的に駄目だった点は、演出力をはじめとした基礎的な力に乏しく、ただ作為のみが浮かび上がり過ぎてしまっているということだと思われる。
    このように、「自分の意図が伝わらない、評価を受けない」ことについて、松本はこれを、「観客の側に問題がある」と結論づけたのではないかと思える節がある。
    実際、当時の彼の発言には、そのようなことへの苛立ちを感じさせるものが多い。
    もともと松本には、本職である漫談やトークにおいて、聴衆に対して、ある種の苛立ちを感じているときがみられ、そもそも彼は観客のレベルを低く見積もっていて、ある種高踏的位置から人やものを批評するという芸風を確立していることは、もはや周知だろう。
    だから今回は前二作に比べ、プログラム・ピクチャーに近い、分かりやすいシナリオを準備して、そのようなレベルの低い観客にも理解できるセンを狙ったのではないだろうか。
    だが、「うまくいく・うまくいかない」という問題は、「分かりやすい・分かりにくい」という点が本質なのではない。「力があるか・無いか」ということに尽きるのである。
    皮肉にも、『さや侍』は彼の作品の中で一番分かりやすい分、脚本力・演出力の深刻な不足を完全に露呈してしまった。
    だから、三作品とも失敗してしまったという結果は、不運でも何でもない。必然的に、失敗するべくして失敗したのである。

    松本人志が優れている点は、鋭敏な反射神経をもって、瞬間的に意外な発想を引き出してくるという点である。
    一連の映像作品において、それがなかなかうまく表現できないのは、脚本や演出というのは、じっくり考えて用意することができるという性質のものだからだろう。
    もともと彼が映画監督として多くの人に期待されたのは、"VISUALBUM"という、舞台劇に近いコントと、ヴィヴィッドな雰囲気の映像を組み合わせたヴィデオ作品の出来がかなり実験的で成功していた、ということが大きいのではないだろうか。
    しかし、いまでは"VISUALBUM"の映像部分は、ゴースト演出家によって撮られたものだということがハッキリしている。

    おせっかいだが、松本人志が今後映画を撮り続けるのであれば、それは、「働くおっさん劇場」以外にも、彼がTVでやっているようなめいっぱいアバンギャルドな企画(「ひばりだらけの野球大会」、「モーニングビッグ対談」など)や、コントを、そのまま本気で、そして全力で押し進めたようなものであるべきだ。
    必要なのは、本気で最高だと信じているものを提供することであり、自分の哲学を前面に押し出していくことである。その意味で『大日本人』は、稚拙ながらある程度はそれができていたように思える。だから不器用でも、着実にそれを押し進めて洗練させていくしかない。
    松本自身、映像制作の才能に欠けているとはいえ、自分の持つ様々なポテンシャルを使い切っているという自覚はないはずである。
    例えば、多幸藩の紋がタコをモチーフにしているというギャグはどうだろう。これを松本人志は、本気で面白いと思ったのだろうか。

    今後、松本人志が全力でリミットレスな暴走を繰り広げたとしても、映画という枠は、まだまだそれほどひずみを見せないはずだ。彼の作品よりももっとめちゃくちゃな映画など無数にあるからである。
    だが、彼が自分のアドヴァンテージを一点に注力し、そこでもし映画に少しでもひびをつけることができれば、それは意味のないことではないだろうと思う。

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    グッチ、ディオールなど、とくに最近は高級ブランドのための映像制作を多く手がけている映画監督、デヴィッド・リンチが、シャンパン製造のモエ・エ・シャンドン社最高級銘柄、"Dom Perignon"「ドン・ペリニヨン」、通称ドンペリの、2011年12月からスタートするキャンペーンのための映像を制作した。

    ドン・ペリニヨンといえば、高名なデザイナーによるアートワークが印象的だ。
    アンディ・ウォーホルによる革新的ボトルデザイン、またファッションデザイナーで写真家の、カール・ラガーフェルドによる、映像、写真、商品パッケージなどの包括的デザイン(個人的には、とくにキューブリック映画『バリー・リンドン』からインスパイアされたフォトグラフ作品が印象深い)、そして彼が主導して行われた、フランス王妃マリー・アントワネットの美しいおっぱいの型をとったという伝説的乳房碗(ボルサン)の復元プロジェクト、そしてリビング・デザイナー、マーティン・ツェケリーによる未来的デザイン(彼のデザインした専用アイス・バケットはパリのポンピドゥー芸術文化センターにて展示されている)、これら栄光のアートワークに、デヴィッド・リンチ作品が加わることになる。




    モエ・エ・シャンドン社のシャンパンの銘柄、「ドン・ペリニヨン」の名前は、オーヴィレールという村の修道院でワインを作り、シャンパンを発明したとされる僧侶、ドン・ピエール・ペリニヨンから由来している。
    というわけで、リンチはその修道院に実際に来訪し、霊感を得ることからプロジェクトに着手、そして帰国後、L.A.のスタジオに、例によって「完全な闇」をつくり、映像制作を開始。そこに二日間こもって、映像を完成させた。
    ドン・ペリニヨンのアイコンである紋章の金属型、火花、レーザーライト、水槽、スモーク、そして燃えさかる火…などを使用し、シャンパン特有の雰囲気を表現した、華々しいヴィジュアルが生まれそうだ。

    この美しいメイキング映像を監督したのは、過去にデュラン・デュランのドキュメンタリーを撮ったギャヴィン・エルダーである。

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    先頃、アルバム"Crazy Clown Time"で、ソロ・ミュージシャンとしてデビューしたことでも話題を集めた、映画監督デヴィッド・リンチが、設計、コーディネート、家具製作等を手がけた先進的なナイトクラブ、"Club Silencio(クラブ シレンシオ)"が、2010年9月、パリのモンマルトル通り沿いにオープンした。



    "Club Silencio"といえば、映画『マルホランド・ドライブ』で、ストーリーの真相に迫る重要な場面に登場した劇場の名前でもある。
    そこで表現されたような、独特な、淫靡で暗く美しい雰囲気とともに、新進気鋭のパフォーミング・アーティストやバンド、DJによる公演、映像上映、ユニークなカクテル、ワイン、スピリッツ、フィンガーフード、そしてリンチ自身の製作によるインテリア・アイテムなどが迎えてくれるというコンセプトなのだ。
    デヴィッド・リンチは、クラブ・シレンシオについて、以下のように語っている。


    「私は65歳だ。人は、50代に入ると、自分の性的能力が健在であることを誇示するため、巨大なタワーを作りたがるという。私は、始まりと終わりを持ったもの、映画、作曲、あらゆる種類のオブジェクトを作ってきた。今、私は一緒にしたものを作りたいと思っている。もともと、私は絵を描くことから始めた。…ここ3年の間、私はモンパルナスの石版画のスタジオで仕事をしている。ピカソやミロが描いた同じ場所、同じ石に刻んでいる。…"シレンシオ"については、2年前から取り組み始めた。そしてそれは、私自身の永遠を感じさせるものだ」


    下の写真は、デヴィッド・リンチ本人により撮影された、クラブの内部。




    デヴィッド・リンチは、映画監督であると同時に、絵画、写真、オブジェ、家具などの、多岐に渡る優れたアーティストでもある。映画『ロスト・ハイウェイ』の撮影に使われたいくつかの魅力的な家具も、彼がデザインし、自ら工作したものだ。
    クラブ・シレンシオに配置されているインテリア・アイテムは、デザイナーRaphael Navot とのコラボレーションである。


    中でも、擬人化されたスピーカーのデザインは非常に面白い。



    クラブオーナーArnaud Frisch(メガネの方)と、デザイナー Raphael Navot。


    Arnaud Frisch(メガネ):
    Social Clubという、クラブとマネージメント音楽のプロダクトをする団体を運営。サンフランシスコ美術大学出身の、写真家、アーティストでもある。
    http://www.mairianne-art.com/

    Raphael Navot
    デザインアカデミー・アイントホーフェン出身。現代的なオブジェ、未来的な家具、ファッション・リングなどを製作している気鋭のデザイナー。



    リンチといえば、多くの映画にコーヒーを登場させ、またコーヒーメーカーまで自作し発売してしまったほどの熱心なコーヒー嗜好者でもある。
    クラブ・シレンシオでコーヒーを淹れてくれるのは、デンマーク出身の2005年ワールド・バリスタ・チャンピオン、Troels Poulsen。


    映画『マルホランド・ドライブ』では、イタリアン・マフィアがロサンジェルスでコーヒーを飲んで、「なんじゃこりゃーっ!!」と激怒するシーンがあったが、このクラブにおいては、その心配はなさそうだ。


    クラブ・シレンシオでは、リンチがセレクトした、学級文庫ならぬシレンシオ文庫(ライブラリー)が設けられるもよう。ドストエフスキーの「罪と罰」、カフカの「変身」、フランク・キャプラ自伝、ロバート・ヘンライ美術指南書「アート・スピリット」、学芸員ロバート・フリン・ジョンソンの収集写真集など。


    営業情報(記事作成時現在):
    月曜休。営業時間PM6:00〜AM6:00。基本は会員と同行者のみが入店可能(深夜0:00以降はフリーで入店可能との噂)。
    会員の年会費は€780(1115ドル)、保険料€1,500(2140ドル)、30代以下と非フランス人は€420($ 600)の割引サービス有りとのこと。
    申し込みは"silencio-club.com/"から。



    また、リンチのアルバム“Crazy Clown Time”の発売を記念して、Club Silencio では、10月27日まで、上映会、ライブパフォーマンスなど、リンチが好き勝手にクラブのプログラムを決めるもよう。

    上映されるのは、リンチの最も愛するフェイヴァリット・ムーヴィー、『サンセット大通り』、『裏窓』、『ロリータ』、『ぼくの伯父さん』、『81/2』、『狼の時刻』、『アパートの鍵貸します』。
    お気に入りのバンドも招聘。The Kills、Au Revoir Simone、Kitty、Daisy & Lewis、Lykke Li などなど。


    オープニング・ナイトで弾き語りをした、パリ在住の日本人アーティスト Sayoko Parisさん。


    Chilly Gonzales "Knight Moves"



    クラブ・シレンシオは、モンマルトル通りとクロワッサン通りに面し、向かいにカフェレストランのある、おいしそうな場所に存在する。

    Google Map ストリートビューで見る"Club Silencio"。

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