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『ドライヴ』は、非常に個性的で稀有な映画だ。 一見、よくありそうな犯罪小説を題材にしたB級アクション作品で、だからこそ「こういう、地味でお金もかかっていないが、かつて60、70年代に多く生産されたような、肩肘張らない滋味溢れるアクション作品を、現代でももっと日常的に見たい」とも思わされるのであるが、その実、このような作品は、思い返してもあんまり無かったように思われる。 何故なら『ドライヴ』は、大掛かりなノワール作品以降の、『俺たちに明日はない』などに代表される、このような等身大的なB級犯罪映画のエッセンスを、注意深く分析・解体していき、それらしく再構築したものだからである。 だから、それら本物の犯罪映画とは、最終的な手触りが、根本的に異なる。
このアプローチに一番近いように感じられるのは、クリント・イーストウッドの、西部アクションを解体・再構築した一連の作品、例えば『荒野のストレンジャー』、『ペイルライダー』、『許されざる者』などだろう。 これらが、本質的に通常の西部劇と異なるのは、イーストウッドの『許されざる者』公開時の観客のリアクションを調べると、より理解ができる。 古くからの西部劇ファンは、イーストウッド演じる無法者ウィリアム・マニーの、卑劣とまでいえるアンチ・ヒーローぶりに、アレルギーにも似た拒絶反応を見せた。 それもそのはずで、この映画のクライマックスにおいてイーストウッドは、連綿と続いて来た西部劇の、暗黙の倫理・制約を、意識して破壊したのである。 これは、イーストウッドの『許されざる者』が、「西部劇を殺した」と言われた所以でもある。 ともあれ、このような発想が出てくること自体が、イーストウッドが従来の西部劇と全く異なるアプローチを取っていたということの、証左になっているだろう。 つまり、かつての2タイプの西部劇、「史学的な叙事詩」と「徹底した大衆娯楽」、とりわけ低級なものと思われていた後者の要素を、現代的に洗練させ、例えれば、安価な(しかし力のある)パルプ雑誌を、現代美術館に、額装し陳列するような行為(レディ・メイド)にも似ている。 もちろんそれ以前に、マカロニ・ウエスタンのセルジオ・レオーネが『ウエスタン』などで先行して同じようなことをやっているし、ハワード・ホークスが『リオ・ブラボー』においてもその再構築的な萌芽を見せている。 つまり、西部劇をメタ・フィジカルにとらえるという、細分化されたジャンル的ラインが、徐々に強く意識化され成長していった歴史も存在するということである。 そして、『ドライヴ』は、現代劇でありながら、その後継にあたるものであるだろう。
『ドライヴ』で描かれる、流れ者が、女性とその子供のために、命を張って対決に挑むという構図は、とくに『シェーン』の要素を、強く意識しながら、全体的に引用していると考えられる。 それ故に、一連のイーストウッド映画に感じるのと同じような、「従来の本格的な映画ではない」という点で、ある種のうさん臭さが『ドライヴ』に漂うのは必然であろう。 ただ、これがかつて、停滞した西部劇の中でささやかに行われていても、現代の犯罪映画にはほとんど見られなかった流れであることも、『ドライヴ』に、特定の映画ファンが警戒感を感じる理由なのだとも感じるところである。 ただ、その中でも多くの観客は、すでにイーストウッドの再構築的作品に触れており、許容し得ているだろうから、個人的には、そのような懐疑姿勢は不要であると考える。 そうなると問題は、『ドライヴ』そのものが、再構築的な映画として、優れた先進性と、クォリティを担保しているかという点に絞られる。 私は、これも大幅にクリアーしていると考えている。
『ドライヴ』がどのような凄さを持っているか、今回はシナリオを注意深く考察することでは、なかなか見えてこないように思われる。 何故なら、監督の意図は、「脚本をうまく映像で表現すること」ではなく、「ほぼ演出のみで先進性を表現すること」であったはずだからである。
その目論みのひとつは、極度にセリフが排され、演技者のささやか(あまりにもささやか)な表情で感情を表現するという箇所である。 驚くことに、「ドライバー」を演じたライアン・ゴズリングや、少女のような人妻を演じたキャリー・マリガンの、そのときそのときの顔を見ただけで、いや、逆にだからこそ胸に響くような、強い感情を表現し得ているところは、素直に賞賛すべき部分だろう。 この映画では、主人公ドライバーの過去は、直接的には何も語られない。 主人公が働く自動車工場の経営者が、「この男は突然フラリとやって来たんだ」と語るのみである。 しかし、言葉少なに彼女を見つめる瞳や、口角の角度や頬の緊張、バーやストリップ小屋でのやりとり、または残虐なヴァイオレンス・シーンと、その後彼女を見たときの、諦観が内に込められた寂しげな表情に、この男の過去は、抽象的に、しかし十分に理解することが可能なのである。
彼女が人妻で子持ちなのにも関わらず、純粋な少女のような容姿を保ち、またロリータ風ファッションをしているのも重要な描写である。 ドライバーが彼女に惹かれたのは、彼が犯罪に手を染めながらも、汚れのない世界に憧れ、放浪していたという人間性を表しているからである。 そして彼らの出会いから、恋愛の進展や、それが潰えるまでの流れが、声無き声によって優雅に描かれていく。 奇しくも二人の出会いの場であるエレベーター内で、ヒロインを守るために刺客を殺さなければならない箇所では、いささか唐突に感じられるものの、彼女にキスをすることで、純粋な恋愛感情を、まだ純粋なままでそこに留め置こうとする刹那的な願いが込められていて、グッと感情が揺り動かされる部分だ。 ここまで、セリフを排した上で、饒舌に感情を語る手腕を持った、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の技量には、凄まじいものがあることは確かだ。
そしてその姿勢は、セリフの排除だけに留まらない。 例えば、ヒロインの夫を脅す暴力的な借金の取り立て人の残虐性を強調する際に、直接的な暴力を描かず、血まみれで倒れた夫だけを写す省略であったりとか、その小さな息子に銃弾を持たせ、大事に保管するように告げること(最終的にその銃弾が父親の眉間を貫くという、異常な警告)などが、切迫した状況を暗示し、かつて悪党の世界の渦中にいて、その危機を察知することのできるドライバーが、強盗計画に参加せざるを得ない説得力を醸成させるスマートさは、芸術的ですらあると感じられる。 このおかげで、『ドライヴ』は映像詩的な、いささか嫌味ともいえるような格調の高さを担保しているといえるだろう。 ここは、先述したセルジオ・レオーネの『ウエスタン』の、セリフの全くない、しかし饒舌に感じられる、緊迫した長い冒頭のシークエンスにも酷似している。 加えて、画面の色調や、時折挿入される、デヴィッド・リンチの映画にあるような重低音のノイズなどが、映画全体を統一された演出で引き締め、これも再構築的でタイトな印象を与えている部分である。 さらに80年代風の、ややレトロな、タイトルなどのアートワークに加え、往年のマニアックなポップスやテクノ・ミュージックを劇中曲として利用している部分は、作品を非常に個性的で奇妙な手触りにしていることも指摘しておくべきだろう。
しかし、『ドライヴ』において、最も重要でメタ・フィジックな箇所は、そのラストにある。 ここまでの展開でドライバーは、その献身的努力とは裏腹に、ヒロインの理想を崩し幻滅させ、しかし健気にも彼女やその息子を救うために、周到に矮小化され描かれた悪漢との取引に臨み、殺し合いに発展する。
この緊迫のラスト・アクションで、両者の影しか写さないのは、通常の感覚からすると、相当に異様な演出だといえよう。 よくあるアクション映画は、映像のスケールや役者の動きのダイナミズムを魅力としてとらえているが、ここではそういった価値観が通用しないのだ。 確かに、中盤の展開で、強盗計画が悪漢の周到な罠であり、技術のある他のドライバーとのカー・アクションにもつれ込む箇所では、そのようなアクション映画の魅力を描いてもいたが、爽快だったのはほぼそこのみであったことを考えると、ここはむしろ、カー・アクションとしての最低限のサービスをしたものであり、本質は別なところにあることを指し示してもいるはずである。
影のみで見せる殺し合いは、暴力のスマートな省略であるだろうし、どちらが死んだかを、次のシーンまで引き延ばすミステリーにもなっているが、最も重要なのは、ここで影が融合するように見えることで、両者の持つ、そして観客が考える「正義と悪」という観念を、混乱させ、不安に陥れる効果があるということである。 それは、その前に描かれた、マスクを着用して浜辺で悪漢を殺す復讐劇と同様の意味が持たせられている。 つまり、自分の信じる純粋さを防衛する過程で、自分自身が悪に染まっていく過程の恐ろしい描写なのである。 彼の、サソリがプリントされたジャケットが、殺人のたびに血にまみれていくのは、そのことを表現しようとする、これもメタ・フィジックな視点からなのだろう。 常識的に考えて、血だらけのジャケットを着てレストランに入店するのは、どう考えても奇妙だ。 この映画は、そのコーディネートされた色調や曲が示すとおり、作り手の心象風景なのである。
ドライバーは、『シェーン』同様、腹部に致命傷を負って、死の危機に瀕する。 腹部の深い傷と相当量の出血というのは、現実でもそうであるように、映画においても、死を暗示するものである。 だから『シェーン』は、その有名なラストシーン、「シェーン、カムバーック!」の呼びかけに応えないシェーンは、その後、馬上で死を迎えたことを予感させるものである。 面白いのは、結局シェーンは、死んだのか死ななかったかを、ぼかしたまま終了してしまうところである。 つまり、二通りの可能性を示唆し、観客の想像の予知を残す、開かれたかたちでの作品のありようがここで示されているのである。
これを、『ドライヴ』ではさらに深く追求し描写する。 悪漢を刺し殺した後、ヨロヨロと愛車に向かうドライバー。彼は、運転席に座り、ゆっくり目を閉じる。 カメラは、その彼を長回しでとらえている。異様に長い間を持たせる。 曲が徐々にフェード・インしてくると、ドライバーはおもむろに目を開き、エンジン・キーを回す。 そして車は発進し、何処かへと向かってゆく。同時に、ドライバーの部屋に行くが、会えないヒロインをワンカットで映す。 しかし、ドライバーはおそらく彼女の下へ帰ろうとしているはずである。 問題は、そこへ向かおうとするドライバーが、生きてるのか死んでるのか、『シェーン』同様に分からないということである。 ヨロヨロと運転席に乗り込んで目をつぶったとき、ドライバーは、本当は死んでいたようにも見える。そして、汚れた肉体を捨てて、魂になって、意志だけ(そしてゴースト・カー)が彼女のいるところに向かっているという解釈も可能なのである。 前者ならば彼女はドライバーと再開できるし、後者ならば会うことはないだろう。 『ドライヴ』は、意識してその二つが重ね合わされているのである。
その状態、いわば「半死半生」は、とくにキリスト教圏では、宗教的な意味をも持つ。 キリストは死後復活するという、人間の力を超えた奇跡を起こしたと伝えられる。 無論、映画において、普通の人間が生き返ることは、リアリティのあるストーリー展開の中ではあり得ない。 しかし、生きてるか死んでいるかよく分からない、または今にも死にそうな人間というのは、ある種、最も神に近い神秘的な存在であるとも考えられる。 それは、キリストの死体が、「生き返るかもしれない」という期待の中で神秘性を発揮するという道理に近い。 ここで思い起こすのは、先述したイーストウッドの『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』などである。
ここでイーストウッド自身が演じた流れ者は、死んだはずの男であったり、亡霊だと疑われるような神秘的な存在だった。 そして、生きているか死んでいるか判然としないからこそ、悪漢を圧倒しつつ打倒することが可能なのである。 イーストウッドの『許されざる者』では、老いぼれたウィリアム・マニーが病気になり、さらに保安官によってしたたかに痛めつけられるという受難を経て、逆に圧倒的な力を取り戻す端緒になったことからも、このような信仰的な事情を類推することができる。
また、ジム・ジャームッシュの『デッドマン』はさらに解りやすい。 ジョニー・デップが演じる半死半生の男「デッドマン」は、半死半生の状態であるが故に、無敵のガンマンとして顕現するのである。

静かにゆっくりと 彼は微笑むように 目を開く あなた方は見えているの? それとも見えないの? 明るく輝き、星々に照らされながら 彼が起き上がるのが 分からない? どのように あの方の心が 勇敢に、完全に、雄大に胸の中でうねってゆくのを 唇から、楽しく穏やかな息が 優しく洩れるのを 見て!感じないの? この素晴らしく完全な、柔らかな至福の嘆きを 全てが穏やかに和解するのを 彼から鳴り響く調べを聴いているのは 私だけなの? ますます高らかに 私を取り巻いて 反響する この調べを! 私の周りに 波のように打ち寄せる、穏やかな風、心地よい香りの波を! それらは、うねりのように、私を包みささやく 私は、それを吸い込めばいいのかしら それとも、耳を傾けるべきなのかしら? 飲めばいい?溺れればいい? それとも 甘い香りのなかに 消え入っていけばいいの? うねり、響く轟音、宇宙の息吹の遍在… 溺れ、 沈み、 われを忘れるほどの… 至上の喜び!
(トリスタンとイゾルデ3幕より) 「トリスタンとイゾルデ」前奏曲
ケルトの説話から生まれ、後に「アーサー王伝説」の中にも組み込まれ、さらにドイツに渡り、「歌劇の王」リヒャルト・ワーグナーが、オペラ作品として書き直した悲恋の物語が、「トリスタンとイゾルデ」だ。 制作にまつわるトラブルや、上演の条件などの問題から、各方面で忌避され、狂王ルートヴィヒ2世の尽力によってようやく初演のはこびとなった、この哲学的にも、楽曲の先進性でも、それ以前の常識を覆した規格外ともいえるオペラ作品は、ワーグナーが自身で「愛の究極的賛美」と呼び、そしてさらにまた、彼が楽曲を完成した瞬間、「私は悪魔の申し子だ!」と、発作的に叫んだというような、当時のオペラ作品としては、あまりに異常かつ画期的なものとなった。 とくに序盤の「前奏曲」、終結部の「愛の死」と呼ばれる楽曲は、後に独立して演奏される楽曲作品にもなっているほどに、高いクォリティを担保している。 映画『メランコリア』を読み解いていくために、あらかじめ、このオペラ作品「トリスタンとイゾルデ」の物語の概要を紹介したい。
アイルランドの王女イゾルデは、コーンウォール王国(イングランド南西部にあった)のマルケ王と政略結婚をするため、コーンウォールの港へと向かう船に乗っていた。 しかし、彼女の心は悲運の騎士トリスタンのものであり、またトリスタンの心もイゾルデのものであった。 突如として、船中でふたりの愛は燃え上がることになる。媚薬が、彼らの秘めた心を開放したのだ。 イゾルデがコーンウォールに到着してからも、彼女はトリスタンと密かに逢引きを繰り返すようになる。 しかし、トリスタンの盟友の姦計により、この不実はマルケ王に露見することになってしまう(ケルト説話では、トリスタン、イゾルデ、マルケ王三者が同時に予知夢を見たことによって発覚する)。 イゾルデを連れ、城から逃れたトリスタンは、かつての盟友の刃による怪我が原因で、逃避行の途中で斃れ、絶命することになる。 怒りに燃えていたマルケ王は、心変わりし、ふたりの恋を許すつもりで彼らに追いつくものの、彼が目にしたのは、すでにこと切れたトリスタンと、気を失ったイゾルデの姿であった。 しかし、意識を取り戻したイゾルデは、すでに悲しんではいなかった。 彼女は、本文章の冒頭で紹介した、「トリスタンとイゾルデ3幕」の詩を、神々しく高らかに歌い上げ、トリスタンの上に倒れこみ(死を暗示させ)、オペラは終幕する。
この悲恋物語は、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の雛型ともなったという。 文頭で紹介した、「トリスタンとイゾルデ」の終局部分は、「愛の死」と呼ばれるように、愛ゆえに死を選ぶという、社会的には不道徳なものであるのは確かで、見方によっては自殺礼賛、破滅の助長ともとらえられる部分でもある。 そしてそれを、最良のスコアの調べに乗せ、甘く耽美的に、神々しく誇り高く演出したからこそ、ワーグナーは自らを「悪魔の申し子」と呼んだのだろう。 『メランコリア』は、「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲」をそのまま冒頭の、本作の重要なシークエンスの映像をダイジェストした、「前奏部分(ラース・フォン・トリアーの前作『アンチクライスト』でも見られた、スローモーションを使った映像と、演奏のみの、演出的に本編とセパレートされた箇所)」で使用してることから考えて、この作品自体が、「トリスタンとイゾルデ」を踏襲したものであることは間違いない。
「前奏曲」後、『メランコリア』のプロローグの舞台は、「トリスタンとイゾルデ」と全く同じように、「コーンウォールへ向かう船」と同じ意味合いである、「結婚披露宴の会場へ向かうリムジン」として表現される。 では、キルスティン・ダンストが演じる花嫁ジャスティンは、ラース・フォン・トリアー監督がイゾルデに重ね合わせたものなのだろうか。仮にそう考えたとして、先に進みたい。
■第一部<JUSTINE>「ジャスティン」
ジャスティンは花婿と一緒に、結婚披露宴会場となった郊外の豪邸へと、時間を大幅に遅れて到着する。豪邸の入り口でハラハラして待っていたのは、彼女の姉夫婦である。 姉クレアは、披露宴の進行を取り仕切っている。クレアの夫は、この、ゴルフコースを完備した豪邸のオーナーであり、また披露宴の費用を用立ててもいるのだ。 空はもうほとんど暗くなっている。ジャスティンは、ここで星空に何か違和感を感じるが、急かされて会場へと入る。 「こんなゴージャスな女性と結婚できるなんて、ぼくは、ぼくは…」瞳を潤ませながら感激に身を震わせる花婿。 ジャスティンの勤めている広告会社の上司が、「君はとてつもなく優秀だ、昇進が決まったぞ」と、サプライズ報告をする。 披露宴は和やかなムードで進行するはずだった。ジャスティンの母親(シャーロット・ランプリング)が、とてつもなく悪意に満ちた、ひどいスピーチを始めるまでは…。
ジャスティンはこのあたりから、気分が悪くなり、沈みがちになってしまう。人生で一番幸せな瞬間に、衆目の中で悪意をぶつけられたのだから、当然といえば当然である。 しかし、ジャスティンの反応はそれを超えた鬱症状と異常性を見せ始め、パーティーで奇行を繰り返してしまうことになる。
控え室に飾っている、明るい雰囲気の抽象画のページが開かれている美術書を、別に置いてある具象画の美術書と、発作的に交換してしまう。 花婿が「肌身離さず持っていてくれ」と言う、彼が購入した農場の写真を、その場に置きっぱなしにしてしまう。 会場を抜け出し、邸宅のゴルフ場の中をゴルフカートで疾走し、ウェディングドレスを着たままグリーンで排尿する。 招待客がケーキカットを待っているのに、控え室から全く出てこず、あまつさえお湯を張ったバスタブの中に浸かってしまう。 そして奇妙なことに、ジャスティンの母親も、同様に自分の控え室で、彼女がそうしたのと同時刻に入浴している。 さらにこれを知った姉クレアの夫は、怒り狂い、クレアに悪態をつく。「一体、どんな親子なんだ!!」 彼女の才能を非常に高く評価している上司にも悪態をつき、会社を辞めるという宣言までしてしまうジャスティン。 最悪なのは、ベッドルームで期待を膨らませる花婿の誘いを拒否し、やはりゴルフコースで、今夜初めて会った、勤務先の新入社員の男性と野外での性行為に及んでしまう。 彼女のあまりな態度に翻弄された花婿は失望し、他の招待客と一緒に、邸宅から離れてしまう。この結婚は解消になるだろう。
ここまでめちゃくちゃな、あれこれの行動は、悪意をぶつけられたからというだけでは説明がつかないし、また強いマリッジ・ブルーが原因としても、あまりに不安定で異常すぎる。 しかし、ここまでの時点では観客に明かされていない、全てにつじつまが合う衝撃の答えが、第二部にて用意されている。 ジャスティンは、狂ってなどいなかった。ただ、他の人間よりも先に、あることに気づいてしまっただけなのである。
翌日、目を覚ますと邸宅には、ジャスティンとクレア、クレアの夫、クレアのひとり息子、執事しか残っていなかった。 気を取り直し、霧の中を乗馬に出かけるジャスティンとクレア。突然、ジャスティンの乗っていた馬が、小さな橋の前で脚を止め、全く進まなくなる。 空を見上げて、また極度の不安状態に陥るジャスティン。さそり座の一部を構成する星、アンタレスが見えないのだ。
■第二部<CLAIRE>「クレア」
7週間経った。ジャスティンの鬱状態は、姉の介助がなければ、体を洗うこともできなくなるまでに深刻化していた。 食卓で促され、やっと食べ物を口にするも、「灰のような味だわ…」と泣き出すジャスティン。手のつけようがない。
同時期、「メランコリア」と名づけられた惑星が、地球に大接近するという報が世界各地に流れていた。 ジャスティンが動揺したように、アンタレスをかろうじて隠すほどのサイズでしかなかった惑星は、すでにクレアにも視認できるまでに大きく空に浮かんでいた。 夫は、科学者の計算によると衝突はありえない、ただの天体ショーのようなものだと言って、息子やクレアを安心させようとするのだが、それでも不安に思うクレアは、独自にインターネットで、惑星についての情報を検索し始める。 そこには、「死のダンス」と呼ばれる、地球とメランコリアが、互いの重力によって複雑な軌道を描き、接近と離反を繰り返しながら、最終的に衝突するという、物理的な軌道モデルがあった。 その図をプリントアウトしたものを夫が発見したが、彼は「ネットの情報などでたらめだ」と、全くとり合おうとしない。
夜中、邸をひとり抜け出したジャスティンを不審に思い、後をつけるクレア。ジャスティンは、人気の全くない水場で、メランコリアの明かりの下、裸になり身をくねらせていた。 空に浮かぶメランコリアは、さらに巨大化している。 そして、一度も休んだことが無いという、邸の執事が出勤しなくなった。
メランコリアが地球に大接近するという日、ジャスティン、クレア、クレアの夫、その息子は、メランコリアの観測をする。 暴力的なまでに大きくなってゆくメランコリアに不安になる彼らだったが、しばらくすると、クレアの夫が言ったとおり、星は徐々に遠ざかっていった。 安堵したクレアが目覚めると、夫の姿が見えない。不安になりもう一度メランコリアの位置を調べてみると、また接近し始めている。それは、自分が調べた「死のダンス」の動きを裏付けるものだった。 夫は、納屋で自殺していた。衝突の恐怖に耐えられなかったのだろう。
その日、クレアはジャスティンから奇妙な話を打ち明けられる。 「私には分かるの」…ジャスティンは、惑星の接近をすでに予期していたし、これから衝突するということも分かっているというのだ。 そして、彼女は「私たち以外に宇宙に生命はない、そして衝突して宇宙には誰もいなくなる」とも言った。 ひどく動揺したクレアは、最期はせめてワインでも開けて、一緒に過ごしましょうと提案するが、ジャスティンは、同じように恐怖するクレアの息子の心のケアを優先させる。 木切れを集め魔法陣をつくり、その弱々しい簡易シェルターの中に入り、最後のときを過ごすのだ。 轟音とともに焼き尽くされていく地平線。全てが炎となる。ついにメランコリアは地球飲み込み、全ての生命を消滅させた。
『メランコリア』は、地球や地球上のあらゆる生命、人類、さらに宇宙の全ての生命が絶えるという、表面的には破滅的で沈うつなストーリーである。 だが、この作品が何の救いも無い、ただの消滅礼賛を謳いあげたものであったとしたなら、作品自体にそれほど意義が無くなってしまうことは事実だろう。 しかし、これを「トリスタンとイゾルデ」の愛の悲劇に重ね合わせて考えると、意味合いが変わってくるはずである。 つまり、運命によって定められていた永遠の恋人、「トリスタン」=「メランコリア」との、「愛の死」がここで描かれている、そして宇宙の壮大な物理現象において、「愛の究極的賛美」を表現しようとする試みが行われているのではないかという考察である。 実際にメランコリアと「死のダンス」を踊るのは、「地球」であったことを考えると、今回「トリスタンとイゾルデ」に重ねあわされているのは、「メランコリアと地球」だという見方が自然である。 そう考えると、ジャスティンは、地球の感情や宇宙的な出来事を、先んじて読み取ることのできる、ある種の巫女のような存在であったといえるだろう。
第二部での、ジャスティンに予知能力があるという、彼女のカミングアウトを信じるとすれば、これまでの彼女の奇行の理由について、つじつまが合うことが分かる。 もともと彼女は、自身が予知能力を持っていることを自覚していた。だからその能力を活かし、広告業界で才能を発揮することができたのだ。 自分の考案した広告プランを提出するとクライアントがどのような反応をするか、ターゲット層にどのような反響があるか、全て彼女は予期することができた。だから上司は、神がかりともいえる彼女の力に惹きつけられ、天才的な感性を持っていると評価していたのだ。 そしてジャスティンは、結婚相手の青年がとても誠実であり、彼と結婚をすれば、最大限に自分を愛し、尽くしてくれることも予知していたはずだ。
彼女が本格的にメランコリック(憂鬱になり思い沈む)な状態に陥った端緒はどこかと思い返してみると、それは彼女の母親のスピーチの時点である。 このふたりが母子であること、そして何故か同時に奇妙な行動を始め、全く同時刻に入浴したというようなシンクロニシティ(共時性)を考え合わせると、彼女たちは同じ情報を共有していたことが考えられる。 つまり、「地球に惑星が衝突し、宇宙にある全ての生物が消え去る」という予知を、披露宴パーティーの会場で同時に(もしくは母親のほうが早かったかもしれない)、知覚してしまったように思える。
通常、ひとはこのような事実を知ってしまったら、まず混乱するだろう。そして、人間関係を含めた全てのものが、無価値に思えるはずである。 結婚とは、男女が未来の共同生活のための誓いを立てることである。ほとんどの人間にとって、近い将来、自分もろとも地球が消滅することを悟っていたとしたら、結婚に意義を見出すことはできなくなるだろう。 ここで、真実を知ってしまった者が、そのことを隠した状況下で、自暴自棄になったとして、それは責められるようなことではないのではと思う。 ジャスティンは、「私、笑ってるじゃない」、「私だって精一杯努力したのよ」と、姉に自己弁護した。彼女は絶望的な気持ちを最大限隠そうと、孤独な努力を続けていたのだ。 彼女は衝動的に、飾ってあった明るい抽象画の画集を、暗い色調の具象画と取り替える。これは、「結婚」という漠然と幸せな抽象的観念を否定するという意味が込められた行動なのではと思わせる。
惑星メランコリアが、自らを破滅させながらも地球を滅ぼすという事象は、まさにお互いの「愛の死」であり、「死のダンス」である。 宇宙が創成され、星系が渦を巻きながら、それぞれが複雑な軌道を辿りながら移動する星々の物理運動が、あらかじめ規定されたものであるとすれば、ある星々が衝突するという現象は運命論的なものだといえるだろうし、また、恋人同士の出会いや結末もまた同じレベルで語ることができるかもしれない。 そしてそれら惑星が、互いの重力に引き寄せられ、接吻するように、また身体を重ね合わせるように衝突する刹那を、きわめて美しい映像で甘美に表現している箇所は、かつて映画で描かれてきた恋愛描写、または愛ゆえに心中するという描写のなかで、最も壮大な「愛」の描写だといえよう。 つまり、冒頭の「前奏曲」で描かれた、いくつもの美しいシーンは、逆説的な美なのではなく、この愛の運命の祝祭であるように感じられるだろう。 それは、親戚や友人らを招待して、歴史ある屋敷で開かれたパーティーなどよりも、はるかに意義深くロマンティックな演出ではないだろうか。
そう考えると『メランコリア』は、破滅的な愛の極北を描いた、きわめてロマンティックなラブ・ストーリーであるといえるだろう。 精神的に不安定だといわれる、ラース・フォン・トリアー監督個人の、自殺への暗い憧れや、快活に生を謳歌する人々を道連れにする喜び…もちろんそのような感情がおそらく今回の映画制作の根底にあることはおそらく事実であろうが、単純にそのような矮小な感情の発露だというように、単純化して考えるべきことではないと私は思う。 何故なら、徐々に、そして暫時遠ざかりながら、しかし確実に忍び寄り、ある時点を境にして、予告しながら迫りくる惑星メランコリアは、我々生物が、誕生した時点ですでに規定され運命づけられている、「死」そのものでもあるからである。 我々は生まれながら、「惑星メランコリア」のように、徐々に、しかし確実に迫りくる「死」を同時に持っている。 そして、生と死が出会い、死の中に身を任せること、これを「愛の死」なる、美しい運命的な、破滅をともなった恋愛劇として描くことは、ある意味でポジティブな視点でもある。 否応なく、全ての生物の、生と死が出会うという事象は、各々のラブ・ストーリーでもあり、それを地球とメランコリアの「死のダンス」が盛り上げていく。 そしてジャスティンのように、苦しみながらも、強く運命を受け入れることで、「死に至る病」を克服しようとする強い精神性を描くことが、極めて重要な普遍性を持ったテーマに昇華し得ているのである。
ラース・フォン・トリアー監督は、『ドッグヴィル』以降、そのセンセーショナルな作風とは裏腹に、残虐性の強調と稚拙な理論武装を施すことにより、作品の質が落ちていたことが懸念されていたが、前作の『アンチクライスト』から、非常に意義深いテーマに取り組む姿勢を見せている。 『アンチクライスト』と『メランコリア』は、基本的には、かつて監督自身が提唱した演出的制約である、「ドグマ95」なる即興的撮影方法への回帰が見られるように、ここにきて、小賢しい社会学などではなく、真に巨匠と呼べるような普遍的視点を取り戻したトリアー監督は、今後大いに期待できるところである。
加えて、『メランコリア』には、前作同様、様々な衒学的意匠が見られることも特徴だ。 ヒポクラテスは、「四体液説」において、人間の構成要素を4つに分類し、またさらに人間の性質を、それぞれのタイプに分類した。黄胆汁質(短気)、黒胆汁質(憂鬱)、粘液質(鈍重)、多血質(楽天的)というように。 その中の、黒胆汁質(メランコリアと呼ばれる)は、「四体液説」が唱えられた当時はネガティヴなものとしてとらえられ、病気の元とさえみられていた。 しかし、ルネサンス期の哲学者は、この憂鬱さに、芸術の根源的素養を見出し、才能の源泉を感じ取ったという。 つまり、憂鬱に打ち沈むには、それ相応の理由があり、それを、ある種の才能を持たない人間が理解するのは困難なのである。 そして、彼らから見て、その憂鬱的な行動は、ただ奇行としか映らないというのである。 これも、ラース・フォン・トリアーが、ここでこのモチーフを扱うことによって、ある精神的な分裂を、救い上げようというポジティヴさを感じ取れる箇所である。
次に、「トリスタンとイゾルデ」以前に、この作品自体の雰囲気を決定付けているのは、ルネサンス期のドイツの画家、アルブレヒト・デューラーによる、最も完成度が高く有名な3枚の銅版画である。
「メランコリアI」"Melancholia I"と呼ばれるこの銅版画は、彗星を眺める天使が、憂鬱(メランコリア)に打ち沈んでいるのを描いたものである。 傍らに座る小さな天使は、「才能、天才」の象徴だという。 そして背後には魔方陣も見える。『メランコリア』で、少年とともに魔法のシェルターで惑星から自分達を防衛しようとするモチーフは、おそらくは多くがこの絵から来ているだろう。
「騎士と死と悪魔」"Ritter, Tod und Teufel"は、馬に乗って進む騎士に、悪魔が時計を見せ不安を与えている場面である。 悪魔が持つ時計は、「死の暗示」に他ならない。馬上の騎士は、死が迫っている、死から避けられない恐怖と戦うのである。
「書斎の聖ヒエロニムス」"Der heilige Hieronymus im Gehäus"は、学究の徒であり聖職者でもあるヒエロニムスが、書斎で調べ物をしている場面である。 彼は、いずれ迫りくる死に対して、思索をし思い悩んでいる。 彼が窓際に置いているのは、アダムの頭蓋骨である。キリスト教における最初の人間の頭蓋骨は、人間が運命論的に、死から逃れ得ないということの象徴でもあろう。
絵画については、「前奏曲」で登場した、ピーテル・ブリューゲルの「雪の中の狩人」にも触れておきたい。 二人の狩人が、山の麓の故郷の村に帰ってきた場面を描いた「雪の中の狩人」は、アンドレイ・タルコフスキー監督が、『惑星ソラリス』でもすでに引用している。 『メランコリア』においても、この絵は同じ意味合いで使用されているのだが、冒頭で、この絵が炎に包まれていくのは、人類にとっての故郷、生命の根源が消え去ることを暗示したものである。
また、本編のパーティで「私、笑ってるじゃない」と、ジャスティンが弁解する直前に演奏されていた曲が、チャップリンの"Smile"であったり、"Fly Me to the Moon"であったりするのは、いかにもあからさまで、人を喰ったラース・フォン・トリアー監督のユーモア感覚だと見るべきだろう。

以前観た映画をもう一度観直すと、よく新たな発見があるものだけど、今回は、「全然考え違いをしていたんじゃないか!?」…という話。
デヴィッド・フィンチャーの『セブン』という作品は、いまだに彼のベストワンだと思っている。 何故なら、彼の他の監督作に比べ、脚本が圧倒的に優れていて、文学的、哲学的な価値さえあるからだ。 脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは、長年このアイディアを持ち続け、ブラッシュ・アップしてきたという。 彼の書いた脚本の中でも、『セブン』は、観客の趣向におもねるような、通常の脚本の作られ方をしていないということもあって、はるかに上質で、意味のある出来となっているといえるだろう。 しかし、私はこの作品のラストを、つい最近まで、バッド・エンドだと思っていた。 「猟奇犯罪者の目論見通りに事件は推移し終結を迎えるが、最後にモーガン・フリーマン演じるサマセット刑事が、ヘミングウェイを引用し、それがこの絶望的なラストの一条の希望として描かれている。 …というような内容なんだと判断していたものの、じつは逆に、猟奇犯罪者が敗北していた、つまり、正義が勝利するハッピー・エンドだったのじゃないか、ということである。…たぶん。 もしも、このエントリーを読んでいるあなたが、すでにそのことに気づいていたとしたら、この先は読まなくても良いと思います。
以下、実も蓋もないネタバレになるが、ラストまでのストーリーをかいつまんで説明したい。

サマセット(モーガン・フリーマン)なるベテラン刑事は、陰惨な事件を目の当たりにしなければならない、自身の仕事に嫌気が差しており、引退を決めていた。 だが、あと一週間と迫った任期中、あまりにも異常な「七つの大罪」連続殺人を担当することになる。 これは、「大食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、嫉妬、憤怒」をテーマに、それらを犯す罪びとを、犯人が神の使者(死の天使)と成り代わり、各々象徴的な方法で殺害していくという、あまりに異常なものだった。 サマセットの捜査の相棒となるのは、田舎から配属されてきた若い刑事ミルズ(ブラッド・ピット)。 ふたりは、犯人の住処を発見し、あと一歩のところまで犯人を追い詰めるも、取り逃してしまう。 しかし、サマセットの退職を待たずして、突然、犯人ジョン・ドウが血だらけの姿で警察署に自ら出頭して来たのだ。 しかも、まだ「嫉妬」と「憤怒」殺人を犯す前に、である。 「犯行を自白することを条件に、私の指定する場所に、一緒に来て欲しい」…犯人の申し出た取引に乗って、その目的地へと向かう3人。 そこには、ミルズ刑事の妻の生首があった。 怒り狂ったミルズは、犯人の頭部に銃口を向ける。 眉間を弾丸で貫かれる直前に、犯人がつぶやく。「私は、ミルズ君の家庭に嫉妬したのだ」 嫉妬した犯人と、憤怒にかられたミルズ。 ここに、犯人の計画した最後の贖罪、「嫉妬」と「憤怒」が完成する。
簡単に言うとこんな感じのプロットなんだけど、ここの最後の部分に嘘がある。 犯人の計画は、じつは最後の最後、ミルズ刑事によって、未然に防がれていたのである。 それを説明する前に、何故そのような結末に至ることになるのかを、先に述べた方が良いと思う。
『セブン』のテーマは、主人公サマセット刑事の内面が、事件によってどのように変化していったのか、という部分に、端的に象徴されている。 サマセットの人格を一言で表すとすれば、「厭世観」になるだろう。 ひどい事件ばかりを担当してきたせいで、彼はすでに「性悪説」で人を見るようになっていて、だからこそ田舎でのんびり孤独に暮らしたいと願っている。 そんなときに起きた「七つの大罪」連続殺人は、彼に新たな嫌悪感を加えつつも、皮肉ながら、ある種のシンパシーを与えることにもなる。 「田舎への逃亡」と、「罪びとへの攻撃(殺人)」。その方法は違えど、紛れもなくこの犯人は、自分自身同様、強固な「厭世観」に支配されている…と感じるのだ。 意識的にしろ、無意識的にしろ、彼が熱心に犯人の哲学に固執し、「神曲」や「失楽園」を読み漁り、没頭するのは、そのためなのである。 このあたりは、むしろ刑事サスペンスの常道のひとつであるともいえる。 同時にサマセットは、ミルズ刑事の自宅に招待されたときに、希望に満ちた若いミルズ夫婦と接することで、そちら側にもシンパシーを感じはじめる。 サマセットは、「人間性」と「非人間性」、この両極端な秤の上を右往左往するような、どっちつかずの存在になってゆくのである。
ちなみに、「サマセット」という名は作家のサマセット・モームからきていると思われる。 サマセット・モームの代表作、「雨」、「赤毛」などの作品は、人間の中にあると思われていた善性、「慈しみ」や「真実の愛」と呼ばれるものが、それを信じていた人間の内面にある獣性によって蹂躙され、虚しく敗北するという物語である。 そのような人間への不信感、懐疑的まなざしを持つキャラクターとして、「サマセット」という名前が引用されているのだ。 そして、この『セブン』において、サマセット刑事は、善性と獣性のどちらが勝利するか、その戦いを目撃してジャッジする、公平な判断者としての役割を担わされることにもなってゆく。
そんなサマセットに、ミルズの妻が、子供を産むかどうかについて、相談することになる。 このようなひどい社会で育つ子供は、幸せになれないのではないか、という不安を、彼女は持っていた。 たぶん、彼女は最初から産むつもりではいるのだが、人生経験を積んだサマセットに理屈を説いてもらうことで、背中を押して欲しかったのだろう。 「産まないのならミルズには言うな。もし産むのなら、思いっきり甘やかしてやれ」とサマセットは答える。 確かに、こんな社会で育つ子供の将来は暗いのかもしれないが、彼は、若いミルズ夫妻に未来の可能性を感じ始めている。 それは、過去の自分が下した判断への後悔と贖罪の意味もあったかもしれない。 このときからサマセットは、多少イリーガルな方法を使ってでも、犯人を強引に逮捕しようとし始める。 これは、引退前に犯人を捕まえ、少しでも良い社会を作らなければならない、という意思の発露なのだろう。
さて、この辺でラストシーンの問題に戻ろう。 希望の象徴である彼女が無残な姿になったのを見たとき、そしてミルズが犯人に銃口を向けたとき、サマセットはどう感じたのか。 サマセットの理性と感情は、ここで分裂することになる。 理性は、彼がそのまま叫ぶとおり、「犯人を殺してしまっては、彼の贖罪を完成させることになってしまう!ミルズ、撃つな!」という理性的なもの。 しかし感情では、「ミルズ、このクソ野郎を殺しちまえ!」と思っているのである。 なぜそう言えるのかというと、ミルズが撃つまでの葛藤の長い間、それを止めることを途中で断念しているからである。 もうひとつの根拠は、じつは、「ミルズが撃つ前にサマセットが代わりに犯人の頭部を撃つ」という展開の脚本も、当初は存在していたらしいからだ。 また、職務を離れた人間として、ミルズを止める権利jがないと思い当たったこともあるだろう。 このような状況で、サマセットは金縛りにかかったように、何もすることができなくなり、事実上犯人殺しを黙認することになる。 ここでは、サマセットは傍観者として、物語の中心から一歩引いた立場となる。それは、我々観客の視点に近いといえるだろう。
『セブン』のストーリーを思い返すと、一見、ミルズは犯人やサマセットに比べて、キリスト教についての知識が無く、また興味も無いように見える。しかし、傍観者となったサマセットよりも、実はミルズこそ、犯人と対峙するに相応しい存在なのである。
ここで物語を少し遡って、ミルズとサマセットが、SWAT部隊とともに犯人の待ち構えていると思われる住処(結局はジャンキーの部屋だった)へと向かうシーンを思い出して欲しい。 車中で、ミルズはしきりに、ある男の名前を思い出そうとしている。彼が過去に一度だけ銃を撃ち、射殺した犯人の名前である。 何故、このときミルズはその男の名前を思い出さなければならなかったか。 そもそも、ここにSWAT部隊が帯同されているのは、犯人がわざと残した手がかりをもとにつきとめた場所に向かっているからであり、爆弾や射撃などの罠を警戒しているからだ。 つまり、ミルズはここで死の恐怖に直面した兵士のような状況なのである。 この状態で、自分が殺した人間の名前を思い出そうとするというのは、神への懺悔をする理由以外に考えられない。 「神様、私の罪をお赦しください、私の銃弾に倒れた××××の魂をお救いください」と、ミルズは心の中で唱えたかったはずだ。それが果たせないから、彼はイラついていたのだ。 つまり、ミルズは、少なくともサマセットよりも、はるかに信心深いのは間違いない。 彼は田舎の両親に、おそらく強い信仰心を植えつけられていたのだろう。そして、正義を執行する刑事という仕事を選んだのだ。
ミルズは人間の善性を信じている。そして、神の子羊として、人間を守るために正義を成そうとする。 ジョン・ドウは、人間を野獣のようなものだと思っている。だからそれを滅ぼそうとするし、同じ欲望を備えた自分をすら殺そうとする。 ここで『セブン』という作品は、本当の姿を現すことになる。 『セブン』は、何故神学的なモチーフを扱っているのか。それは、おどろおどろしい猟奇殺人の恐怖を盛り上げるためだけではない。 この作品のテーマは、「人間は獣である」という哲学と、「人間は善である」とする哲学との対決であり、両者の神学論争なのである。

銃口をジョン・ドウの眉間に向けているとき、ミルズは何を考えていたか。 ここも分裂故の葛藤が発生しており、その感情は、ブラッド・ピットがより分かりやすい顔の演技で示している。 無論、感情は、「このクソ野郎を殺してやる!」というもの。この表情は、「憤怒の顔」といえる。 理性は、「この男の思い通りに撃ったところで、彼女は戻ってはこない」といったもので、それは「泣き顔」として表現される。 この「憤怒の顔」と「泣き顔」が、短いスパンにて交互に現れる。ちなみにこの葛藤のシーンは、ブラッド・ピット畢生の素晴らしい演技だと思う。 永遠にも感じる、この緊迫した葛藤の繰り返し。この長回しに、ふいにごく短いワンカットがモンタージュされる。それは、彼の妻の笑顔だ。 この直後、迷いなく彼は犯人の頭部を、正確に撃ち抜く。
この刹那、ミルズは何を考えていたか。 確かに、彼は「憤怒」と、「悲しみ」や「理性」の間で揺れていた。 しかし、「憤怒」の状態で犯人を撃てば、それは犯人の勝利でもある。 これに打ち勝つには、目の前で恍惚の表情を浮かべている犯人に対し、「撃たない」という選択をするしかないはずだ。 ここで、彼の妻の笑顔が脳裏を横切る瞬間に、ミルズに劇的な感情と理性の変化が起こり、分裂していたはずのそれらが一致する。 「撃たないことが犯人への唯一の復讐方法だが、それでは、彼女はどうなるのか」 「たとえ犯人が勝利したとしても、彼女の無念は晴らさねばならない」 ここでミルズが犯人の誘惑に打ち勝ったとしても、犯人はその後死刑にならないかもしれない(死刑が無い州もある)し、もしかして精神鑑定で無罪になる可能性もあるのだ。 最後に残された妻の尊厳を守るために、信念を持って、ミルズは犯人に敗北し、罪人になることを受け入れるという選択をする。 だからこそ彼は迷いなく引き金を引くことができたのだといえる。
このときのミルズの感情は、「憤怒」でないばかりか、キリストが他人の罪を引き受け身代わりになったという、犠牲的精神を思い起こさせるほど、崇高なものに昇華していたのではないか。 ここでの彼の顔を見て欲しい。憤怒の顔でなく、冷静な表情で引き金を引いていることが分かるはずだ。 …ということは、どういうことかというと、ミルズは犯人の計画を、犯人を殺害しながらも阻止するという大逆転、ウルトラCに成功しているのだ。 「憤怒」の状態でミルズが犯人を撃たない限り、「七つの大罪」連続殺人は、その意味が半ばなくなってしまうはずである。 ジョン・ドウは、その事実に気づかないまま死んだかもしれない。 しかし、ミルズはすでに復讐などどうでも良い境地に達しているのである。
この、「人間性の勝利」ともいえる奇跡を目の当たりにしたサマセットも、「厭世観」を凌駕する希望を見出した。 緊急逮捕され、護送されてゆくミルズを眺めながら、サマセットは心の中でヘミングウェイのことばをつぶやいていた。「世界は素晴らしい、戦う価値がある」 いや、世界は依然としてひどいものである…しかし、彼はその後の部分には賛成したいと思った。 「戦う価値がある」というのは、負け惜しみや強がりではない。ミルズは実際に、犯人との神学論争に勝利していたのだから。 そう考えると、やっぱりこの映画、ハッピー・エンドだよ。
※この記事は2009年に書いた文章を、加筆修正したものです。
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ジョルジュ・メリエスという人がいる。 手品師として劇場を経営し、リュミエールの発明した「映画」に出会い、あまりにも有名な『月世界旅行』をはじめとして、トリックを利用した多くの特撮映画を作り上げた、魔術的映画監督である。 また、オートマトン(からくり人形)による自動筆記の機械を作っていたこともあるらしい。 この逸話から、絵本「ユゴーの不思議な発明」が生まれ、またそれをマーティン・スコセッシが映画化したのが、『ヒューゴの不思議な発明』である(主人公の名前は、フランス語の発音から英語の発音に変化している)。
この映画は、子供向けの作品として提出されているものの、本国の批評家の評価も軒並み好く、アカデミー賞で5部門を受賞し、作品賞は獲れなかったものの、最後まで本命とデッド・ヒートを繰り広げるなど、非常に世評が高い。 ストーリーは、孤児の少年が古い機械に隠された謎を解き明かし成長していくという、ジュブナイル風の冒険譚でありながら、映画制作の現場のマニアックなディテールを紹介しだしたり、映画黎明期の作品をいくつも取り上げるなど、大人の映画好きが好むようなものに、内容が徐々にシフト・チェンジしていく。 リュミエールに始まり、メリエスやグリフィス、チャップリンやハロルド・ロイドなど、映画人が紡いだ夢の世界を、ロマンティックに表現してしまっているという、つまり熱のこもったウェットな演出で、黎明期の映画を持ち出してきて、泣かせにかかってくるのだ。

映画内で映画史に触れるという手法がとられた映画には、例えば、膨大な過去の映画をコラージュした『ゴダールの映画史』があるし、溝口健二や山中貞夫をフィーチャーした、市川崑の『映画女優』もある。最近も、ジャック・タチの映画を登場させた『イリュージョニスト』があった。 だから『ヒューゴの不思議な発明』が、その点において、極めてオリジナリティがある、というわけではない。
この作品において最も重要だと思われる、メリエスの過去を語った、あまり長くはないパートでは、彼の今までの経歴が駆け足で描かれる。 見ものなのは、自身が建設した撮影所での、メリエスの映画撮影の情景だ。 当時のセットを再現し、彼の魔術の秘密に、観客が触れることのできる瞬間である。とくに巨大怪獣(ドラゴン)出現の箇所(おそらく映画初の怪獣特撮)は、圧倒的な実在感で素晴らしい。
だが本作の場合、ひとつの作品として全体のバランスを考えると、かなり奇妙なスタイルになっているということは間違いないだろう。 はっきり言って、オリバー・ツイスト的な孤児の奮闘物語と、メリエスの映画制作にまつわる物語は、ほとんど関係があるように見られない。 このふたつを物語上で融合しようとする意志を、強くは感じられないものの、その代わりに、過去の映画作品のオマージュ・シーンを少年のドラマに滑り込ませていくことで、どうやらこれらをリンクさせようと考えているようだ。
ストーリー上で鍵になる『月世界旅行』の月面到着シーン以外に、例えば一番分かりやすいのが、劇中でも紹介されていた、ハロルド・ロイドの『要心無用』だろう。 これは、ロイド扮する田舎出の青年が、成り行き上、衆人環視の中でビルの壁のぼりをする傑作コメディだ。 この壁を登っていく所は、無数の楽しいアイディアが投入され、もちろんギャグ作品として相当に笑える上に、高所恐怖スリラーとしても本当にハラハラさせられる。 このアクション箇所は、ヒューゴ少年が駅の大時計の分針にぶら下がるシーン、また、サシャ・バロン・コーエンが演じる駅の警備員が、腕だけで壁をよじ登っていく箇所でも使われているだろう。 ちなみに、ジャッキー・チェンが『プロジェクトA』でぶら下がるシーンも、『要心無用』のオマージュであることも有名だ。 また、映画の発明者であるリュミエール兄弟による、観客が席から逃げ出そうとした逸話で有名な『列車の到着』も、何度も引用され、新たに3D映画として「飛び出してくる」迫真性を表現しようとしている。 クロエ・モレッツが、駅から降りてきた観客達に踏まれそうになってしまうシーンは、元ネタがよく分からないが、ドライヤーの『吸血鬼』の、虚空を見上げるような主観的シーンに、ヒッチコックの『下宿人』でガラスの上を歩かせる演出を組み合わせているように感じた。 ここでのクロエ・モレッツの恐れ戦くリアクションは、サイレント風のオーヴァー・アクトだ。

このような一連のパロディ演出を見て違和感を感じたのは、これが子供映画でありながら、子供を喜ばせるようなものとして、しっかりと成立させようとする意志が弱いということだ。 なるほど、過去の映画作品への偏愛やクラシック趣味を盛り込むことはいいだろう。しかし、その要素が作品の構成要素としての必然性が低ければ、唐突なものとして映ることになるだろうし、さらにそれがあまり面白くもなく、そんなに魅力的でもないために、マニアックな知識の披露としての意味がほとんどになってしまうということである。 時計の針につかまってぶら下がるシーン、列車が脱線するシーン、踏み潰されそうになるシーン、また、ねずみのおもちゃが動き回るコマ撮りアニメ風演出など、どれも、それらが単体の魅力を十分に発揮できているものではない。 これは、マーティン・スコセッシ監督が、この手のエンターテイメント映画や、児童作品の演出に慣れていなく、さらにそこまで興味が無いからだろう。 サシャ・バロン・コーエンを使った、いくつかのスラップスティック・コメディのシーンも、もちろんたいして笑えるものではない。 基本的に、コメディ表現は器用な感覚的手腕が必要とされるため、スコセッシ監督にそれを望むというのは無理な話かもしれない。
冒頭の、パリから鉄道駅の構内にカメラが突入していく3D表現は、本作の見どころではある。 このワンカットの3DのフルCG映像は、駅だけでも構成ポリゴン数3500万が必要とされ、シーン全体では、1台のPCでレンダリングに17万時間の計算量があったという。これを5つのオフィスで、計1000台のPCに作業を分担させたという話だ。 だが、これが本当に資金をかけたほどの迫真性を持ち得ているかどうかは、疑問に思う。 この箇所については、本作のイメージづくりに役立っただろうと思われる、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』の冒頭映像を観て比べて欲しいと思う(パブリック・ドメイン作品)。
このパリの情景は、驚くべきことにセットで作られているが、この神経が行き届いた美術とカメラワークに比べると、『ヒューゴの不思議な発明』の冒頭映像は、極めてイージーでつまらないものに感じられてしまう。 もちろんこれらは単純に比べられるものではないのかもしれないが、もっとアイディアや省略演出を駆使することによって、もっと効率よくスマートに観客を楽しませることができたのではないだろうか。 どちらにしても…これは全編を通して言える事だが、スコセッシの撮る映像の質感が、いかにもハリウッド大作調の照明と色合いで、美術にも、当時の美しさを伝えるフェティッシュ的な感性が行き届いていないため、往年の名作映画を紹介する箇所以外の、本編映像の美的な価値は低いといえるだろう。
では、この映画の優れていると思われるような点は何かといえば、端的に言うと、映画制作の面白さと情熱、観客を喜ばせたいという気持ちをストレートに表現する箇所、例えばみんなで古いフィルム上映を観ながら、楽しんだり懐かしがっているシーンを、ひたすらウェットに描いている部分にあるだろう。 しかし、私はこれもどうかと思う。というのは、ここでもスコセッシの能力が発揮されていず、ひたすらに凡庸なもの(『ALWAYS 三丁目の夕日』で描かれるようなノスタルジー表現)にしかなっていないからだ。
『ヒューゴの不思議な発明』を、「映画愛」という言葉を使って褒め称える人がいる。 では、「映画愛」とは何だろうか。 私がこのような言説に強く反撥を覚えるのは、この作品はただ映画作家について取り上げ、また当時の作品群の演出をイージーに分かりやすいかたちで、パロディとして引用しているだけだからだ。 ほとんどの映画作品は、もともと演出の模倣で成り立っているところがある。映画制作者は、自分の脳内のヴィジュアルとともに、他の映画の記憶を引用して映画を作る。その多くの作品は、『ヒューゴの不思議な発明』に比べ、映画への愛情が希薄だとでもいうのだろうか。 先ほど例に出したジャッキー・チェンの『プロジェクトA』のアクションは、ロイドの活劇を、同じように自分の命を賭け再現し、また、実際に落ちてみるという、映画活劇の世界をさらに切り拓いていこうという情熱が感じられるものだ。そのような熱意こそが、真の映画作品への愛情なのではないだろうか。
そもそも、メリエスやリュミエール、グリフィスに対して、「映画愛」という言葉が通用するだろうかという疑問もある。 メリエスは、映画を通して、自身の魔術(トリック)、SF世界を表現しようと思ったはずで、映画という媒体を、あくまで道具として利用し、使役したのだと思う。 だからこそ彼の作品は唯一無二であり偉大なのだ。 我々は、メリエスの作品に「映画」を感じるのではない。メリエスの映画を通し、メリエスのイマジネーションを体験するのである。 それを、「映画愛」や「映画」という枠の中に押し込めるということは、メリエスの偉業を矮小化することに他ならないだろう。
『ヒューゴの不思議な発明』における、フランシス・デ・ラトゥーラ演じる老齢の女性と、リチャード・グリフィス演じる老紳士が、お互いの犬を遊ばせて会話をするシーンは、役者の顔を見せたいのか、カットを何度も切り返す、スコセッシの悪夢のような手際の悪さが確認できる。 こういうとこをクラシックにスマートに撮ってこそ、往年の映画へのリスペクトにつながるのではないだろうか。
マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』での、技巧的ではないが、若さと野心に溢れる即興的な撮影と演出。映画の凄さというのは、むしろそこに宿っていることは間違いがない。

「ミッション:インポッシブル」シリーズは、トム・クルーズが自ら立ち上げたプロダクションの制作したシリーズだ。 主演俳優が主導の作品なので、もちろんトム・クルーズが前面に押し出されるような内容になるのは必然なのだが、彼がその題材に選んだのが、往年のTVドラマ「スパイ大作戦」映画化の企画だったのは、今思うと意外に感じるところだ。 何故なら、「スパイ大作戦」は、アメリカ諜報機関のスパイチームが、互いの得意分野を生かし、他国の要人やスパイに、複雑なギミックによる罠を仕掛けて国家機密や重要な情報を奪うという内容であるからだ。 つまりそこでは、特別な主演俳優を必要とせず、観客の意識も、どちらかといえばサスペンス的ギミックやガジェットの面白さの方に向いてしまうはずなのだ。
サスペンスの巨匠、ブライアン・デ・パルマを監督に招聘した最初に映画化された『ミッション・インポッシブル』は、TV版のチーム・リーダーであるジム・フェルプスをジョン・ヴォイトに演じさせ、トムはTV版のローラン・ハンド(変装の達人)を基にしたイーサン・ハントを演じるのだが、その冒頭では、おなじみの展開を堪能できる。 ロシア人の情報保持者を、ある部屋に見せかけたセットで目覚めさせ、そこに死体に見せかけた女を寝かせるなど、精神的に追い詰めて情報を吐かせる。 このような「部屋をとり換える」というギミックは、TVドラマのエピソード、「焼土作戦」などでも見られる常套手段である。
しかし、この脚本では、序盤のミッションでフェルプス率いるスパイチームが、イーサン・ハントを残し全滅してしまうという驚愕の展開を見せる。 これは、「スパイ大作戦」という題材を、トム・クルーズが自分の代表作とするために活かそうとした、脚本上の奇策なのだろう。 しかし、この一作目はとにかく素晴らしい。ブライアン・デ・パルマの、ヒッチコック演出を念頭に置いたマニアックな粘着的演出が、プログラム・ピクチャーの枠の中で非常な冴えを見せ、「スパイ大作戦」的要素の新解釈によるエンターテイメント…とりわけエモーションを組み込んだアクションや情報戦の見せ場など…のような価値のみにとどまらず、美術的にもクラシカルで端正な、大人のサスペンスとして機能している。 この雰囲気は、照明を抑えたことによる陰影のB級的雰囲気、もしくはアートフィルム的質感とともに、プラハの街並みの端正さ、また出演者のヴァネッサ・レッドグレイヴとエマニュエル・ベアールから発せられる、なんともヨーロッパっぽい香りなどによる功績も大きかったと思われる。
興味深いのは、ジョージ・ルーカスの特殊効果スタジオ、"I.L.M."が参加していることで、変装マスクに加え、ラストの列車での、ラロ・シフリンの往年のテーマ曲をバックに流してまでの超絶アクション、レストラン爆破シーン、ラングレーのCIA本部に忍び込んでデータを盗み出すアクロバティックなミッションなどは、全体の雰囲気からすると、ちょっとやり過ぎに感じるくらいで、ここはおそらく派手好きのトム・クルーズの意向が大きく反映された結果であることが想像される。ブライアン・デ・パルマのセンスとは大きく異なる部分である。 ただ、デ・パルマのタッチを拡大解釈したつくりにもなっており、このアプローチが、本シリーズ全体の特色ともなっている。
さらに、冷戦の終結から来る、スパイ活動の前時代性にも斟酌しているところも面白い。 一作目はとにかく、結果的に映画を観て「面白い」というところを超えたような面白さを持ち得てしまい、スターありきのプログラム・ピクチャーとしてのクォリティを完全に逸脱した、アクション・スリラーのマイルストーンとなった。これは異論の無いところだと思う。
その後制作される二作目は、このクォリティを再現するだけでも至難と思われたのだが、デ・パルマが『ミッション・トゥ・マーズ』という、ミッション違いの別の作品に着手したことにより、制作陣は大きな路線変更を迫られることとなった。 ちなみに、デ・パルマの『ミッション・トゥ・マーズ』は興行的に大きく失敗しており、多くの批評家にも酷評されてしまった。
このような状況下で、香港出身のジョン・ウーを監督として起用し、全く別のガン・アクション映画にしてしまうという、さらなる奇策が採用されることによって、このジレンマを解消するようなアイディアを採用したことは、プロデューサーとしてのトム・クルーズ、共同プロデューサーのポーラ・ワグナーの手腕を評価すべきだろう。 前作のスコアが、オーケストラを使ったダニー・エルフマンのクラシカルなアプローチだったのに対し、ここではハンス・ジマー(他作品でジョン・ウーと組んでいたという理由もある)による、エレキサウンドに変更されたことは象徴的だ。 これが成功した要因の大部分は、ダンスのようなガン・アクション、またここでもセルフ・パロディを中心に構成するという、特異的なジョン・ウー監督の身上が、最大限に活かされるような脚本作りがされたことによると思われる。 また、カメラワークを見ても、ジョン・ウーが敬愛する石井輝男監督から由来しているだろう、ハイスピード・ズームなどの演出技法が多く採用されていることからも判るように、かなり細かいところまでの演出を任されている、つまり監督本位の、ちゃんと「作家の作品」としての芸術的存在価値がある、これを堅持する姿勢が、一作目と同様にしっかりとあることが最大の美点なのだ。
デヴィッドフィンチャー監督が降板し、後を受けたジョー・カーナハン監督とも制作途中で折り合いが悪くなり、企画が難航したことで、当初の企画から2年も遅れてしまった三作目は、また少し毛色が異なる。 当時、脚本家で、当時スパイもののTVドラマ「ALIAS(エイリアス)」を、演出家としても成功させていた、しかし劇場用長編の演出は未経験であるJ.J.エイブラムスに、脚本と演出の両面で起用という試みである。 これが意外に成功したのが、前述したようなトム・クルーズのアクション嗜好、通俗娯楽嗜好が、J.J.エイブラムスの能力と身上に、非常に合致していたものだったからだろう。 そのおかげもあって、一作目や二作目にあるような、多少不自然なアクションの付け加えが不要なほどに、エイブラムスの脚本には統一された美しさがあるし、「スパイ大作戦」リメイク作としてのツボも押さえたものになっている。 さらに、彼の演出の技量も、それなりに高い水準にあったということは非常に大きかっただろう。 しかし、この三作目が、前二作に比べて、ずいぶんと小粒なものに見えてしまうのは、エイブラムスの情熱が、とくに何かのフェティッシュや美学、またエキセントリックな部分に裏打ちされたものでなく、あまりに通俗一辺倒で没個性的なために、作家の作品としての存在価値が薄いからである。この特徴は、彼が後に監督した『スター・トレック』のリブート作や、『SUPER8 スーパーエイト』を観ても確認することが出来るはずだ。 つまり、J.J.エイブラムスの演出スタイルが、前二作の監督に比べると、まだまだ出来上がっていなかったということだろう。 とはいっても、例えば二作目からの空白期間にスマッシュ・ヒットしたスパイもの『ボーン・アイデンティティー』などと比べても、通俗娯楽としての面白さを前面に押し出して、作り手の情熱を感じることができるのは、「ミッション:インポッシブル」シリーズの方であり、そういった意味で、大きく下降・消滅するかに思われた本シリーズの延命を成功させたのは大きかった。 この成功から、J.J.エイブラムスは今回の『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』についても、原案に関わることになっている。 しかし、今回監督として招聘されたのは、さらに意外な、実写作品未経験のアニメーション監督、ブラッド・バードであった。

ブラッド・バードは、以前『レミーのおいしいレストラン』評で書いたとおり、同作によって、アカデミー長編アニメ映画賞を受賞していると同時に、「ザ・シンプソンズ」の一部エピソード、『アイアン・ジャイアント』、『MR.インクレディブル』等、キャリアの全てにおいて傑作に関わるという、アメリカ映画史上稀に見る才能を持った巨匠である。 彼は、ただ面白おかしくアニメを作るだけではなく、そこに魂を込め、また苛刻な芸術として完成させてしまうことのできる、アメリカにおいても他をはるかに圧倒する稀有なクリエイターである。 とくに『レミーのおいしいレストラン』では、子供向けアニメーションにも関わらず、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』を超えるような、「孤高の魂」を描いたことは印象に新しい(『レミーのおいしいレストラン』評参照)。 その彼が今回、ビッグ・バジェットの実写作品を手がけるというだけでも一大事件だといえるだろう。 バードが招聘された経緯はよく分からないが、おそらくここで彼に期待されたのは、『MR.インクレディブル』でのスパイ描写の演出の確かさであろうことは、J.J.エイブラムスの起用理由を考えれば、想像に難くない。 実際、『MR.インクレディブル』で見られるガジェットの面白さを中心にした作劇が成されているように思われる。
『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』は、人相識別や複写機能がついたコンタクトレンズ、人間用エア・バッグ、部屋ナンバー偽装交換機器など、シリーズの中で最も多くの、込み入ったガジェットが登場する。 ここで面白いのは、公衆電話の指令音声装置、くっつきグローブ、変装マスク製造機、強力磁気発生装置などのガジェット(正式名称ではなく全て私による命名)がことごとく不調に陥り、結局は人的なパワーでなんとかしなくてはならなくなるところで、この「最後に頼りになる椀力」という描写が、観客にとって非常にチャーミングであり、またカタルシスを生み出している点で、この姿勢は本作において常に意識され、徹底されていることが分かる。
同時に、今回の最も大きな特徴は、漫画的なユーモアがとにかくいっぱいつまっているということだ。 いかにも分かりやすく、アニメーション作家による演出と意識させるのは、オープニング・クレジットの部分で、短いスパンによって、本作品のハイライトを、ダイジェスト的に変更されていくような舞台の変わり目のセンスは、非常に漫画的発想によって構成されていることが分かる。 またこれは1作目同様に、導火線を前景にIMF(インポッシブル・ミッション・フォース)メンバー達がフィーチャーされていくという表現で、オリジナル版に最も近い描写にもなっているといえるだろう。 例えば、ロシアの牢獄の床がボロボロと崩れ去ったり、インドのパーティのシークエンスでは、室内の噴水から飛び出る水流が、カメラワークと連動していたりという演出がアニメーション風であるし、また中盤の、ドバイを飲み込む砂嵐の煙幕が、大気をどんどん侵食して迫ってくるヴィジュアルは、おそらくグリーン・バックなどによる効果ではなく、そのままCGアニメーションを合成したものだと思われるように、ブラッド・バードのアニメーション監督としての資質を、脚本の面から裏打ちするようなものになっている。
クレムリン侵入ミッションは、1作目の変奏といえる内容で、緊張感とユーモアが同時に味わえる箇所だといえる。 ここで登場するのが、本作中最も狂ったガジェットである、「視点追尾型リアルタイム偽装映像スクリーン・システム」と、「ピチョン音発射装置」である。 IMFチームは、このピチョン音発射装置で見張りの男の意識を逸らしながら、スクリーン・システムを少しずつ男の前方へとスライドさせていき、偽の映像(いつもの廊下の風景)を見せながら、資料室へと侵入していくのであるが、ここはもう、ほぼコントとして楽しむ描写だろう。 こんな複雑すぎる仕掛けを使うよりも、麻酔銃などで見張りを昏倒させる方がはるかに楽であることは明白だし、またこのシステムを現場に放置することで、侵入の形跡が残ってしまい、おそらく機器の部品などから、IMF組織の関与がバレてしまう危険が発生してしまうはずだ。 だが、これが「スパイ大作戦」なのである。アメリカのテクノロジーと知性、腕力、ユーモアによって、大掛かりに敵をグリフトする(引っ掛ける)ことが本来のTVシリーズの特徴だったので、それを再現したという意味では、本シリーズ中、最も「スパイ大作戦」に近づいたものになっているといえるかもしれない。 ちなみに、「スパイ大作戦」では、都会の部屋に寝ているロシアのスパイを、荒野に作った同じ内装の部屋に、気づかれないように移動させ、「核戦争で全世界が焦土と化してしまった」ということを信じさせて情報を引き出すという荒業を採用したりしている。 現実のアメリカ政府は、拷問や薬物や脅迫などで政治犯から情報を得るらしいので、やはり実際の手法とは全く異なるのであるが…。

ドバイの超高層ビルディング、ブルジュ・ハリーファでのミッションも、このように部屋をとり換える作戦がとられる。 敵に部屋を誤認させるためには、エレベーターの制御システムにアクセスする必要があるのだが、セキュリティが強固なため、ビル内のサーバー室に潜入する必要が出てくる。 IMFチームは、くっつきグローブを利用して、ビルの外側から窓をつたって、この高層にあるサーバー室に潜入することを思いつくのだが、そのシークエンスのスペクタクルが、『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』のアイコンとなっている。 まず、IMFの自室の窓ガラスをはずすときに、ハンディ・レーザー・カッターでガラスを切断していくのだが、ここでいったんレーザーがショートしてしまうのが伏線となっていて、この後サーバー室侵入の際に、トム・クルーズが落下してしまう原因となっているなど、芸の細かい演出が見られる。 「ブルーはグルー(くっつく)、レッドはデッド(死ぬ)」とサイモン・ペグによる説明があるが、このくっつきグローブのカラー・ライトの表示機能は、実用的な意味が薄いことから、「くっついている、くっついてない」という、一見分かりづらい情報を、観客へ認知させる仕組みなのだろう。そしてクライミングの最中、遠くの方から砂嵐が近づいていることを認識させ、時間差で前のめりの情報を見せることによって、説得力を持たせるようにするなど、クリエイターの細やかな工夫が、一見ありがちな通俗アクションに、場当たり的な要素を減らしていく効果を与え、迫真性を増しているのが素晴らしい。 おそらくこういうアイディアは、脚本や監督以外のスタッフからの意見も広く採用しているのかもしれない。とにかく、水も漏らさぬ神経で映画への価値付けを徹底させていることが分かる点だ。 振り子の運動を利用して空中ジャンプを見せるシーンは、角度が上過ぎたために、顔面から窓枠にぶつかってしまい、また落下しそうになってしまうなど、ドジ故に危機に陥る箇所も非常に多いのも楽しい。
また、くっつきグローブが不調を見せ、トム・クルーズが片方を投げ捨てるシーンの、観客へ与えるプレジャー感と、そこから不安な音楽とともに、カメラが引いていって、巨大なビルにへばりついているトム・クルーズがどんどん小さくなっていくカメラワークは、間違いなく本作のベストシーンだろう。 本作では、監督の意向により、多くのシーンがIMAXカメラで撮影されている。これにより、レンズの形状による歪みが少なく、細密に像を写しとることを可能とし、ビルディング・クライミングのスペクタクルのリアリティが倍加していることも見過ごせない。 ちなみに、核ミサイル発射コードを手に入れた敵を追っての追撃は、ビルという縦から、地面の横への移動に切り替わり、垂直の運動の変化が楽しめるのは興味深い点だ。これは、『千と千尋の神隠し』でも行われた、作品全体を通した、運動における構造上の仕組みと同一だからである。
立体駐車場でのアクションについては、言うまでも無く、『ルパン三世 カリオストロの城』や、『モンスターズ・インク』のようなアニメーション活劇そのものの実写化と言ってよいだろう。 立体駐車場をアトラクション風に使用し、トム・クルーズの肉体が、落下や軋轢によって少しずつ痛んでいき、少しずつその機能が奪われていくところは楽しく、まだまだこのような身体性が、我々観客を喜ばせる要素として、代表的なものであることを思い出させてくれる。 なかでも、乗用車に乗ったまま落下するトム・クルーズの顔の皮が、後方に引っ張られる描写は傑作だ。
だが、このような戯画的な実写活劇描写は、独創的なものであってしかるべきはずであるが、すでにスティーヴン・スピルバーグやジョージ・ルーカスによって、往年のTVドラマのアクション描写などの再構築としての意味において、様々に行われてきたものであり、さらにそれを表面的になぞった作品が乱造された結果、今日の観客が新鮮な感動を持って享受できるようなものではないことは確かではある。 確かにこのあたりの肉弾アクションは、前3作同様に、身体性を伴った面白さに溢れているが、発射された核ミサイルの核弾頭を無効化する装置を取り合うという光景のくだらなさは、さすがに実写で見ると、現実的な感覚から飛躍し過ぎているかもしれない。 ここでの問題は、発射された核ミサイルが、どの程度の時間でアメリカ本土に到達するかが、観客につかみにくいということだろう。 よって、インドとロシア領海、アメリカという、遠隔の距離感や、飛行の時間間隔は、ただ映画の編集者のさじ加減に委ねられているわけで、その点において、この作品の後半のミッションにおける迫真性は、前3作と比べても、かなりの部分で奪われているといえる。
さて、本編における演出的なクライマックスが、ラストの後日談的シークエンスにあるところは面白い。 デ・パルマの第1作の、最も注目すべき箇所は、トム・クルーズとジョン・ヴォイトの会話シーンだった。 これは、ジョン・ヴォイトが話している内容と、トム・クルーズが回想して、出来事を想像する映像の内容がズレていき、音声と映像の乖離が発生するという、複雑で実験的なシークエンスだった。 これが非常に機能し得ていたのは、頭脳明晰なスパイのマルチタスク能力の誇示にもなっていたからだろう。 今回もその能力をトム・クルーズに発揮させ、ジェレミー・レナーに顛末を説明しながら、ある登場人物の姿を追い求めるという、第1作のロマンティックな変奏をしたというのは、気が利いた演出だ。
ただ、そのような描写がシリーズを通して足枷になっているのも確かで、「ミッション:インポッシブル」シリーズは回を重ねるごとに、それをどんなにうまく細部まで作りこんだとしても、第1作の要素を変奏している部分が増えていき、今回はブラッド・バード自身の能力を堪能するというよりは、例えば才能のあるミュージシャンが、過去の名曲をミックスしているという印象が、シリーズ中最も強かった。 これは、J.J.エイブラムスが今作の原案に関わったということもあるだろうし、実写でのキャリアが無いことでの、バードの自主的コントロール不全という状況も大きかっただろう。 その意味においては、ブラッド・バード監督作の中では、野心的な部分が非常に希薄なものになってしまったのは残念であった。 しかし、この作品が興行的にも批評的にも成功したことで、バードの制作上での力が一層増すことになるという事実は、明るい材料であるだろう。
トム・クルーズ個人としては、プロデューサーとしての興行的成功に加え、自らの魅力やスター性がまだ健在であり、マネーメイクのできる俳優であるということを、映画界内外に知らしめたという意味において、これ以上の成功は無かっただろう。 この成功を受けてトム・クルーズは、2012年度のアカデミー賞において、映画人としての名誉である、作品賞のプレゼンターとして選出された。 このことは、『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』の、ハリウッドでの影響の大きさを物語っているだろう。
追記(2012/03/08): 『ヒューゴの不思議な発明』のレビューを書いている過程で、引用されているハロルド・ロイドの『要心無用』が、ゴースト・プロトコルのビル登りにも引用されていることに気づきました。 これは、ロイド扮する田舎出の青年が、成り行き上、衆人環視の中でビルの壁のぼりをする傑作コメディで、このスペクタクル・シーンには無数の楽しいアイディアが投入され、もちろんギャグ作品として相当に笑える上に、高所恐怖スリラーとしても本当にハラハラできます。 このビル登りのシークエンス、未見の方はぜひご覧ください。
合成技術が十分でなかった20年代の作品なので、ハロルド・ロイドはこの作品において、後半の高層での階まではさすがに登ってはいないものの、かなりの高所で決死のアクションに挑んでいます。 このときすでにロイドは、映画撮影での爆破事故で、手の指を一部失った状態だったため、非常に苦労したであろうことが推察されます。 ちなみに、ジャッキー・チェンが『プロジェクトA』でぶら下がるシーンも、『要心無用』のオマージュであることも有名。

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