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    アメリカの新作トレイラー2本を紹介。

    まずは、M.ナイト・シャマランが、キッズチャンネル「ニコロデオン」のアニメ作品を実写作品として映画化した、"The Last Airbender"。
    風や水など、自然の力を操り戦う戦士達の物語だ。
    今回、初めて子供向けのアクション大作を撮るということで、シャマランがどのような作品に仕上げるのかに注目したい。



    予告編を見る限りでは、CGを多用しており、エンターテイメントとしての訴求力は充分にありそうだが、その中で監督が自らの特長を生かすことができるのか、また、逆にそういうことが可能なのだろうか、という疑念にとらわれる内容だ。
    今回は、ヒッチコック風の流麗なカメラワークはあるのだろうか。

    もう一作は、今まで何度も企画に上っていた、TVドラマ「特攻野郎Aチーム」のリメイク作品。
    あらくれの特攻野郎どもをまとめ上げるのは、リーアム・ニーソン。スティーブ・マックイーン風でかっこいいぞ。
    オリジナルではミスター・Tが演じた、飛行機恐怖症のバラカス軍曹には、元ボクシングライトヘビー級世界王者、クイントン・ジャクソンが選ばれた。



    監督のジョー・カーナハンは、『M:i-3』の監督を降板し、個性的な、ギャング群像劇『スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい』を撮るなど、本作にフィットするだろう才能だ。
    ヒットしそう。

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    台風の目となって世界の映画の未来を担っていくのは、韓国のキム・ギドク、そしてパク・チャヌクであるはずだった。

    2004年度のカンヌ国際映画祭では、不可解にも『華氏911』が最高賞となったが、パク・チャヌクの『オールド・ボーイ』は、明らかにパルム・ドールに相応しい、迫力に満ちた出来だった。
    さらにキム・ギドクの、ベルリン銀熊賞受賞作である『サマリア』の、観るものの魂を切り裂き、愛撫するような感覚と、その完成度はあまりにも凄まじく、これだけで彼は実質的に、世界の映画文化の趨勢図を大きく塗り替えてしまったように思える。
    これと比べてしまうと、同じく援助交際を扱った原田眞人監督の『バウンス ko GALS』など、恥ずかしくて誰にも観せられない。



    両者の作品の素晴らしさは、何よりも、度を超えたパワフルさにある。
    それは、この両者のみに限られたものではなく、現在の韓国映画全体にもいえることだ。
    かつての、鈴木則文『まむしの兄弟 恐喝三億円』で菅原文太が、銭湯で板切れを振り回し、撲殺しようと暴れまわるメチャクチャさ、野田幸男『0課の女 赤い手錠』で、警察がガスバーナーで被告を拷問する不謹慎ないい加減さ、神代辰巳『悶絶!!どんでん返し』のオリジナリティーあふれる圧倒感。このような日本の混乱期が、ちょうど数年前より韓国に訪れているのではないかと想像される。
    韓国映画の、異常な熱気に包まれた現在の状況というのは、率直にうらやましく感じる。
    この「386世代」とも呼ばれる監督達の世代以降は、言うまでも無いが、日本において彼らに効し得る才能が、全く生まれていない。
    彼らふたりを評価する際、日本の監督を比較対象とするならば、現役の作家では不足だろう。例えば、成瀬や小津を持ち出してこなければならないかもしれない。
    ちなみに、アジア3国の監督が撮ったオムニバス、『美しい夜、残酷な朝』でも、パク・チャヌクと、香港のフルーツ・チャンに挟まれた日本代表の三池崇史監督は、ひとりだけ低レベルでいたたまれなかった。

    キム・ギドク作品で最も人気があり、評価が高いのは、おそらく、寓話性と耽美的な映像が高次元で結びついた『うつせみ』である。
    『春夏秋冬、そして春』においても顕著であるが、キム・ギドクは、寓話性、神話性を突き詰め、よりシンプルに収斂させたテーマを、劇中において何度もしつこくしつこく反復することにおいて、作品の強度を高めていくというメソッドを追求し、また、現代におけるコミニュケーション不全の問題を、修復するような方向に持っていかず、逆に推し進めてしまうことによって、何らかの結論まで突っ走ってしまうという、白痴的ともいえるエキセントリックさを発揮した。
    この作品により、実質的に世界の頂点に立ったかに見える、その自らの芸術性について、文字通り「勝利宣言」をしたのが、彼の次作、『弓』劇中においてだった。
    「いつまでもピンと張った弓の弦のようでありたい」
    最後に挿入された彼のメッセージは、「私は『うつせみ』で、ギリギリまでに精神性をつきつめたことにより、作品を上位のステージに引き上げた。それは、12作品目にあたるこの『弓』においても同じだ。この緊張感をいつまでも維持し、作品を撮り続けていこう」…というように解釈していいかと思う。
    この挑発的ともいえる勝利宣言は、彼の、作品への真摯な姿勢と共に、ある程度の増長を感じさせるものであった。
    しかし、しっかりとした内容を伴っている以上、この挑発への批判は誰も出来ないし、何よりも、「この調子で撮り続けて欲しい」という気持ちは、多くの観客達も同じである。
    映画を未来へ進ませる鍵は、パク・チャヌクとともに、『うつせみ』の成功により、とくにこのキム・ギドクに与えられたように見えた。
    そう、あの『グエムル』が公開されるまでは…。

    錬金術を究めたかのように見えた、彼の自信を、完膚なきまでに粉砕したのは、アメリカ映画でもない、フランス映画でもない、『殺人の追憶』を撮り、キム・ギドクのすぐ後ろに迫っていた国内の監督、ポン・ジュノだったのだ。
    それは、不用意な勝利宣言の代償でもあったのだが、ギドクのことを責めるわけにはいかないだろう。ギドク以外の誰も、ポン・ジュノという、トリックスターによる、素晴らしい『殺人の追憶』からの、さらに大きなジャンプを予想できなかったのだから。
    寡作とはいえ、劇場長編わずか3作にしてこの完成度である。これは、映画史上でも例を見ない快挙といえる。
    何故か極東の一国に、これほどのタレントが同時に生まれてしまったことは、世界の頂点に立とうとするギドクにとって、突発事故というか、とにかく一気に深刻な状況に陥ってしまうことになったと言わざるを得ないだろう。

    『グエムル』は、ヒッチコックの『鳥』のように、エンターテイメントとして、誰もが面白く観ることのできる作品として、充分すぎるほどのボリュームを持っている。しかしながら、『ほえる犬は噛まない』から引き続き継承されている、ヌーヴェルバーグを始めとした、世界古今の映画的記憶を自由闊達に引用し、さらにそれを、作品本体に完璧に従属させてもいる。
    いくら液体を吸収しても、まだまだ飽和量に達しない、ハイテク素材のような驚くべき作品だ。
    この成功は、多くの観客や映画人にとって完全に想定外の、キム・ギドク以上にユニークすぎる新しい才能の登場を意味していた。
    この自在さと余裕、豊かさを目の当たりにすると、キム・ギドクが限界まで引き上げたその精神が、やせぎすの鶏ガラのように思えてくるほどだ。

    『ワイルド・アニマル』や『悪い男』にみられるドラマ性、臭みや上澄みをきれいに掬い取ってしまった、『うつせみ』以降のギドクにしてみれば、作品の強度とは、贅肉を限りなくそぎ落とし、純粋な結晶をむき出しにしてこそ得られるものだという認識だっただろう。
    もちろんそれ自体は間違いではないし、だからこそ、彼は病的とまでいえる、肥大した自己の妄想を映像化してきたのだ。
    『弓』が象徴するように、『うつせみ』以後の彼の作品は、矢の軌道のような、一点を突破しようとする意思によって支えられているように見える。
    しかし、尋常ではない熱量は感じても、どう見てもギドクほど必死でない、一見、鼻歌混じりにさえ感じられるパロディ的姿勢で、『グエムル』の、例えば、クライマックスで噴射される毒の煙幕の異常なまでの美しさは、『うつせみ』のクライマックス同様のレベルで、これ以上ない美しさを放っている。
    つまり、多方向のベクトルに力が分散されているにも関わらず、一点突破をしようとするギドク同様の強度を保ちつつ、さらには彼が捨ててきてしまったはずの豊かな映画的贅肉まで有し、おまけに興行的に大成功までしているのである。
    ギドクによる『グエムル』への、理不尽ないいがかりのように見える批判は、このような、彼が嫉妬に狂わざるを得ないような、必然的背景があったのだと想像している。

    作品で感じるとおり、もともと病的であったギドクは、『グエムル』によって、劇的な精神的疲弊を加えられなければならなくなった。
    それが垣間見えるのが、『ブレス』や『悲夢』でのコメディ表現の失敗ではないだろうか。
    とくに『ブレス』においては、彼の中で、奇跡であり神聖でなければならないはずのクライマックスが、幼稚な組体操じみた表現になってしまっていたのが、その混乱の深刻さを表しているように感じられた。
    何故、ギドクは、ドラマ性を残した『サマリア』ではなく、『春夏秋冬、そして春』に代表されるような性質の、寓話一辺倒のスタイルで作品を撮り続ける状況に突入したのかというと、べつに本人がそうしたかったわけではなく、そうしなければならない立場に、ポン・ジュノによって追いやられてしまったからではないか。



    さて、意識的か無意識的なのかは判然としないが、キム・ギドクを『グエムル』によって叩き潰してしまうことになったポン・ジュノの新作が、『母なる証明』である。
    原作は同名の小説だが、この映画作品は、前述したような諸々の魅力的な386韓国映画の要素が次々にフィーチャーされ、それは無謀にも、それら全てを総括してしまおうとしているように見えるほどだ。
    『サマリア』、『復讐者に憐れみを』、そして自身の『殺人の追憶』、『ほえる犬は噛まない』、またチョン・ユンチョル監督の『マラソン』など、どこかで観た場面がつるべ打ちのように展開されていく。
    ポン・ジュノは『グエムル』で飽き足らず、さらにこのような様々な贅肉を身に纏うのである。
    その試みの異常さのために、この作品は、非常に不穏で、不気味な質感さえ帯びているように感じられる。

    これはさすがに意識してるのかもしれない。彼は過去10年程の韓国映画の決定版を提出し、瀕死のギドクにさらなる致命傷を与え、完全に葬り去ろうとしてるのではないかと、私には思えるのだ。
    事実、『母なる証明』は、それが充分に可能であるほどに、脚本、演出、撮影と、完璧なダイヤモンドのような、ほぼ非の打ち所の無い作品として完成してしまっている。
    脚本について、クライマックスの謎解きの部分が少々都合の良い気がするが、それ以外は、あらゆる面で何もケチがつけられないだろう。

    これはポン・ジュノの特長のひとつだが、とにかく登場人物のキャラクターが、あきれるほどにいちいち魅力的である。
    まず、主演のキム・ヘジャは、国内のTVドラマのお母さん役でおなじみの、「韓国の母」という異名を持つほどで、原題の「マド("MOTHER")」そのものの、アイコンになるに相応しい女優だ。
    ポン・ジュノは、この「韓国の母」を、考えうる限り様々に残酷な方法で、しかし、いくらかのユーモアを持っていじめまくる。
    最高なのは、自宅の便器を掃除してたら、頭に便器のふたが落下してくるシーンだ。
    練馬の大根で脳天を殴られた大女優というのがいたが、便器のふたというのはあまりにもひどすぎる。ひどいけれど、同時にそんなものを真摯に見つめてくれるカメラの優しさが、非常にほほえましく感じる一場面であった。

    さらに、息子の悪友の、脇役としては必要以上に複雑でミステリアスな内面も愛らしいし、その男に殴られまくって鼻血を出し、少女の幻影を見る少年達、セパタクローの足技を駆使して、容疑者を威嚇しまくる刑事、携帯電話改造業を営む女子高生、カラオケのマイクを使って大音量で話す尊大な弁護士などなど、市井のなんでもないはずの人々のチャームを、これ以上は無理なほど最大限に膨張させている。
    これは、最近のギドクに見られるような、作品を解体し、描くものをストイックに絞ることによって彼岸へと向かう破滅的姿勢とは逆の、あえて「386」の本流に停滞することによって、その力の発揮を狙うという、ある意味で勇敢なものであるかもしれない。
    しかし、その選択をしようがしまいが、何にしても水準を大きく超えることができるだろうと、その作品内の中だけでも感じさせてくれるのが本作なのだ。



    テオ・アンゲロプロスを想起させるような、荒れ野原での静謐な映像、ベッドから垂れた手の指の先に向けて、ペットボトルからこぼれ出る水が、ゼリーのようにずんすんと侵食してくるサスペンスシーン、バス亭前で排尿しながら、同時に母親に薬を飲ませてもらう表情と、その尿の流れを頭上から捉えた奇跡的に感じるショットなど、一本の映画の中でひとつあれば嬉しいようなクォリティの演出が、惜しげもなく無尽蔵に繰り出される映画的愉悦に、ポン・ジュノのオールラウンダーな才能を、誰であれ認めざるを得ないだろう。
    そして、韓国の文化であるらしい「ダンスフロアになってしまうバス車内」で踊りまくるおばさん達を、望遠で夕日とともにとらえたラストシーン、ラリラリのアメリカン・ニューシネマ風に、突然転調してしまうものすごさ。
    また中盤で、知恵遅れであるはずの息子から、最も忌避していたはずの記憶を掘り返され絶叫するシーンの、作品自体を軋ませるインパクト。
    ところどころ作品は軋む。でも、映画は壊れない。

    本当に驚くべきは、このような印象的なあれこれが、脚本によって要請された最良の表現として選ばれた演出のように思える、ということだ。
    通常は、感覚的だったり、現実離れしているような演出は、映像的な訴求効果はあっても、脚本の進行を妨げてしまうものだし、実際にほとんどの映画作品がその相克と戦うものである…といのが常識的な考え方であるが、『母なる証明』では、その両者が相乗効果を発揮しているように思える。
    この魔法の源泉はどこからくるのか、本当のところは、私には分からない。ただ、ある程度は推理することはできる。

    まず、脚本の制作時間を多く取り、同時進行で、不完全な状況ながら絵コンテも切ってしまう。
    そして片方が完成した時点で、もう片方を、矛盾の無いように、しかもアイディアをどんどん加えながら、書き変えてしまう。
    このプロセスを何度も何度も繰り返すとういう、地味な練り上げ作業の反復が、圧倒的な作品の強度を獲得することにつながっているのではないだろうか。
    つまり、脚本が優れた演出を要求し、演出が優れた脚本を要求する、そして両者が飴状に融解して結合するという境地まで、昇華させてしまうのである。
    これは、ポン・ジュノが漫画を良く読んでいるということからも、考えられることだ。

    ポン・ジュノ作品を観ることによって感じてしまうキム・ギドクに感じる不満は、そういった練り上げの不足から来る脆弱さではないだろうか。
    それは、『ワイルド・アニマル』での主人公たちの処遇に感じるような適当さ、良い意味で言えば無軌道さを見れば、よく分かると思う。
    もちろんそのようなスタイルは、ギドクの天才を表しているし、美点にもなり得るのだが、その調子で、自身の創作の井戸から水を汲み上げていくことによる枯渇はまぬがれないのではないかと想像されるのだ。

    この素晴らしい『母なる証明』が、ギドクをさらに駄目にするのか、それとも、新しい表現に挑戦させるカンフル剤になるのかは、今後、ぜひとも見ていきたい関心事だ。
    そしてそのギドクを、さらなる傑作で抹殺するだろうポン・ジュノの新作が、何よりも待ち遠しい。


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    『アバター』は、次世代のハリウッドを支えようとする、「立体映画」の未来を占う最初の超大作として、巨額を投じ制作された。
    私は、新しい地平に踏み出すクリエイターの勇気を賞賛したいし、そういうスタッフ達を批判はしたくない。
    だが、『アバター』はあまりに壊滅的な出来で、美点を探すことさえも極めて困難な失敗作になってしまった。
    この映画、観終わった後に、内容について誰かと会話したいというような気が全く起こらないほどに、印象が無いし、存在感が無い。
    先日、ゴールデングローブ賞の作品賞、監督賞ともに受賞したものの、断言するけれど、この映画は半年も経つと忘却の彼方だよ。



    まず、一番の売りであるはずの、3D映像のアトラクション的体験についてだが、これが「未体験」だと思われるようなものでは決してなかった。
    立体映像が効果的なシーンが非常に少なく、飛び出しても飛び出さなくても、どっちでも良いような箇所ばかりである。
    今つらつらと思い返してみても、パターゴルフでコーヒーカップを倒すシーンくらいしか、立体である意味があった場面が思い当たらない。まあそれにしたって、オリジナリティのかけらもない、何も面白くないシーンだったけれど。
    確かに、崖の下を怪鳥が飛んでいたり、霧の中の浮き島群など、奥行きを出そうとしていることは認めるけれども、これらの映像が全くの平面であったとして、さして感想は変わらないのではないかと思う。

    その意味では、これも不完全だったゼメキスの『DISNEY'S クリスマス・キャロル』の方が、立体の面白さを伝えようとしてい、まだ成功しているのではないか。
    そして、両者よりも、コッポラの『キャプテンEO』の方が、懐古趣味ではないけれど、よほど面白いし衝撃的だった。
    まあ、あれは劇場設備にレーザー光線やスモークがあったりしたので反則かもしれないが、それでも立体映画として、様々なテクノロジーを駆使しているはずの『アバター』が、20年以上前の作品に負けているのはどういうことだ。
    ギーガー風に特殊メイクしたアンジェリカ・ヒューストンの邪悪な爪が、ワサワサと観客へ向けて突き刺さろうとする…そのような魅力に代わることの出来る何ものかが『アバター』には何ひとつなかった。
    ちなみに、『DISNEY'S クリスマス・キャロル』には、「過去のクリスマスの精霊」の挙動不審な動きなど、観客を驚嘆させるものがまだあった。

    『アバター』で決定的に落胆させられてしまうのが、その世界観だ。
    不思議なジャングルや聖なる樹など、美麗といえば美麗なのだが、「ファイナル・ファンタジー」のムービー…とまで美的センスが悪いとは言わないまでも、場末のラブホテルに飾ってあるラッセンのイルカ絵や、シム・シメールの虎の絵みたいな、とんでもない田舎者しか評価しないような雰囲気に満ち満ちた安っぽい背景には、眉をひそめるしかない。
    メカニック・デザインや室内美術のつまらなさも特筆ものである。
    『2001年宇宙の旅』や『スター・ウォーズ』のような実体感や奇抜さ、SFの面白味は味わえず、『デューン 砂の惑星』や『リディック』、『サンシャイン2057』にさえも勝てていない。
    低予算SFならほほえましいけれど、ハリウッドの未来を担うべきSF映画が、この程度の美術で何故OKが出てしまうのか、ワケが分からない。
    それに、あの青い肌の異星人は、劇中で「エイリアン」、「エイリアン」と呼ばれていたけれど、三つ編みの中に触手があるのと体が大きいだけで、ほとんど人間が仮装してるのと変わらないじゃないか。
    ゾウとか恐竜とか、地球の動植物を扮装させただけのような諸々にも、独創性を何も感じない。
    せっかくフルCGなのに、イマジネーションが貧困なために、学芸会の扮装に近くなってしまっているのは、哀れだと言うほかはない。

    さらに仰天してしまうのは、脚本のあまりの幼稚さだ。
    これ、「ポカホンタス」の設定がSFっぽく変わっただけじゃないか。
    まあ「アバター」なる、「他人の体を借りる」という要素が追加されてはいるが、そのために、テーマにとっては不要な描写が増えることになり、結果として作品の印象が薄くなっている。
    同じく「ポカホンタス」を基にした、テレンス・マリックの『ニュー・ワールド』の方が、物語や設定が整理されているため、ストーリー以外にも、映像の美しさや演出を、純粋に楽しむことが出来る。
    『アバター』というタイトルから、それでは、例えば押井守の『イノセンス』にもあったような、擬体・ゴースト・人形・実存などの、リラダン的な哲学世界を垣間見せるのかというとそうでもなく、ただ、「どっちが現実が分からなくなってきた」という、漠然とした恐怖感を主人公が語るだけだ。これだけで、観客に何を感じさせようというのか。
    結果、162分と長尺になってしまっているが、その割には内容がスカスカである。
    確かに、現実と、もうひとつのとの現実との曖昧な距離感というのは、いい意味の不思議さ、気持ちの悪さを、一応は感じさせるところではあったので、例えば、そのふたつの現実に加え、就寝時の夢の世界の描写を付け加えると、問題が明確になったかもしれない。



    さらに、主人公は、自らの言に説得力を持たせるために、ドラゴンライダーのような、なんだかとても尊敬される勇者になるわけだが、その過程の部分がカットされているのが納得いかない。
    無駄のように思われるシーンが非常に多く感じられるのに、肝心な試練をちゃんと描いていないので、観客は、狐につままれたように感じるだろうし、その後の、主人公への過大な尊敬も合点がいかなくなる。

    このストーリー展開に唯一の独創性があるとすれば、それは、「主人公がエイリアン側に寝返り、人間と戦い、勝利してしまう」というところだろう。
    一見、過激なまでにリベラルな態度を感じる箇所だが、ここにも疑問符をつけたい。
    「ポカホンタス」は、現アメリカにおいて覇権を握るアングロ・サクソン系の人々、つまり英国人が、先住民の聖地を侵略する物語であり、そこにはある程度の「侵略者の内省」を感じるところなのだが、『アバター』では異星人の村を侵略しようとするのは、狂ったキルゴア大佐みたいなのが指揮する、現地に企業が派遣した暴走傭兵軍団ということになっている。
    それはあたかも、外国でアメリカ出身の兵士が、現地の少女をレイプしたとして、「それは一部のろくでなしの犯行だよ。第一、アメリカ兵じゃなくて民間企業の兵士だし」と言い訳しているように感じられ、気分が悪い。
    キルゴアみたいな大佐は、クライマックスで、「俺がいる限り戦争は終らん!」と言い放つ。お前一人が戦争の原因だったのかよ。
    『アバター』はアメリカ政府を批判していない。アメリカ企業も批判しない。悪いのは、あくまで末端の悪人なのである。
    冗談じゃない。もともとイラク戦争を支持したのは、多くのアメリカ国民じゃないか。当時の日本政府も支持したから、日本人にだって責任はある。
    このような、自分自身を悪行から切り離し、土壇場で責任から逃げようとする態度では、人間の、本来持っている原罪や悪魔性、残虐さを描ききることなどできるわけがない。
    そういったことをテーマとしたわけではない…というのであれば、はじめから、軽々しく戦争の悲劇やヒューマニズムらしきものなど、描こうとするべきではないだろう。

    「ワルキューレ作戦」という言葉が劇中で出たことで、やはりキルゴアを想起させられてしまう、この筋肉大佐は、劇中で唯一、魅力的なキャラクターなのかもしれない。
    しかし、やはりオリジナルのキルゴアの方が、全然狂ってるし、知性的だし、何よりも恐い。
    空爆シーンに、さすがにワーグナーは流れることはなかったが、『地獄の黙示録』の空爆シーンのような迫力、後ろめたい快感や美しさは、この映画には全く無い。
    まるきり劣っているくせに、よく『地獄の黙示録』にオマージュを捧げられると思う。

    ところで、主人公は異星人と共に人間と戦うが、それでは、果たして異星人側は正義なのだろうか。
    異星人は、人間に姿がそっくりなように、発想も人間にそっくりである(というか、アメリカ先住民そのものなのだが)。自分達を襲う武力に対し、武力で応戦する。
    今回、たまたま異星人側が勝利してハッピー・エンドを迎えるわけだが、このような解決方法では、また恨みを持った地球人に攻められるのは必至だろう。
    テロに対して空爆する。空爆に対してテロを行う。これでは、いつまでも戦争は終らない。
    そのような、アメリカが現実に直面している泥沼的な状況に対し、『アバター』は何らの教訓を与えないばかりか、逆に自衛権礼賛、戦争礼賛という印象を与えている。
    村の大木が破壊され倒壊する場面では、「911テロ」を想起させられたが、それに対し、報復することを奨励する『アバター』は、イラク戦争をも正当化しようとしているようにも感じられてしまう。
    一体、何がやりたいんだ。ジェームズ・キャメロンって、馬鹿なんじゃないかとすら思えてくる。

    『アバター』はほぼ全ての面で失敗しているとして、しかしおかげで、3D映画について考えを進めることはできた。
    それは、3D映画は、ただ2D映画のアップグレード版ではいけないということだ。
    従来の映画の企画を、そのまま3Dで撮ってみても、『アバター』のように、飛び出す必要の無いシーンがほとんどになってしまう。
    3Dにフィットした傑作が生まれるためには、企画、脚本、絵コンテの段階で、それぞれ綿密な、3D独自の検討が必要になると思われる。
    それを推し進めると、現状の環境では、2D版、自宅鑑賞を切り捨てることにもなりかねない懸念は、確かにあるだろう。
    しかし、2Dという逃げ場に足を置いたままで、良質な3D映画を制作できると思っているのならば、ちょっとムシの良い話なんじゃないかと思っている。

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    クライマックスの空中戦を観ながら、宮崎駿作品が古典として引用されるまでになったことに、随分と感心させられてしまった。
    ジョン・ラセターからの影響もありそうだが、アメリカに限らず、現代のクリエイター達は、古今東西、多岐にわたるライブラリーを参照し、作品を作ることが出来るのだ。
    文化がボーダーレス化していくことの功罪はいろいろあるだろうけれども、私は、文化の地域性というものをそれほど重視していないので、基本的には、作家個人の優劣が、より純粋に判断できるこのような状況を、素晴らしいことだと思っている。

    しかし、この『カールじいさんの空飛ぶ家』、極めて魅力的なその導入部と比較すると、このクライマックスを含む後半部分が、壊滅的に退屈である。
    しゃべる犬群との追跡劇、空中での立ち回りなど、全く、わくわくもドキドキもしないのだ。これは、どういうわけか。



    内気な少年(後のカールじいさん)が、冒険好きで魅力的な少女に出会ってから、結婚し、老年になってその最愛の妻を失うまでのモンタージュは、アニメーション史上に刻まれ得る叙情シーンだと、私も思う。
    『グラン・トリノ』同様、カールじいさんは、失った彼女を、二人で建てたその家そのものに見出そうとする。
    そして、無数の風船にその家ごとぶらさがり、かつて二人が夢見た冒険の地へと赴くべく、大空へ舞い上がる。
    冒頭からここまでの流れはほぼ完璧で、否応無しに感動させられてしまう。
    しかし、よく考えてみたら、これはアルベール・ラモリスの『赤い風船』の内容とほぼ同じ展開である。
    『カールじいさんの空飛ぶ家』は、さらにその後の展開を描いているのであり、この後半こそが、本作のオリジナリティと呼べる部分となるはずだ。

    老人は、最愛の妻のための旅の途上で、頭の弱い犬、頭の弱いアジア系の少年、頭の弱い鳥を仲間にする。
    それは奇しくも、桃太郎の犬、サル、キジと偶然符号するのだが、なんと老人は、その頭の弱い犬、サル、キジのために、妻同様になっている家をあきらめることになるのだ。
    この展開ならば当然、最愛の妻よりも、犬、サル、キジの存在価値を重く描いておかなければならないはずだが、その彼らが全く魅力的に描かれていない。
    何故、彼ら仲間の頭が良くないのかというと、老人の知恵を必要とする、弱い子供としての役割を担わされているからだろう。
    つまり、「最愛の、しかし死んでいる妻より、馬鹿でも生きている子供」という、社会的に真っ当な価値観を、老人が受け入れるという構図である。

    もし、私がこの老人の立場であっても、そのような選択をするしかないだろうと思う。
    何故なら、人間は社会性の中で生きなければならない存在であり、真っ当な社会的倫理観からいって、または宗教的倫理観において、「そうせずにはおれない」枷が、我々につながれているからに他ならない。
    老人は空に飛び立って、それら全ての枷から逃れ得たはずだったのに、再びその枷につながれ、あまつさえ屈服してしまうのである!
    この展開を見て、私たち観客は感動できるだろうか。現実に打ちのめされた姿を眺めながら、「そりゃ、そうだよなー」と思うしかないのではないだろうか。
    黒澤明の『生き物の記録』で、三船が演じる、核爆弾に怯える老人が、ラストでまともになって、「これからは迷妄を捨て、現実的な幸せを追求するぞ」と言い出したとしたら、それは一個の作品としてどうだろうか。
    安心はするかもしれないが、そこには何のテーマも、感動も残らないはずだ。まさにこの『カールじいさんの空飛ぶ家』のように。

    宮崎駿は、よく「ぼくはキチガイが好きです」と、各所で発言してきた。
    これは、「常軌を逸するほどに高められた精神こそが面白く、また美しく、価値がある」ということだと、私は理解している。
    「怪獣が子供を人質に取ったとしても、地球防衛隊は怪獣を攻撃することを断念してはならない」というようなことも言っている。
    宮崎作品の主人公の多くは、たとえどんな犠牲を払おうとも、やるべきことはやるのだ。
    ポニョはその代表格なわけだが、そのような行為は、社会的に見ると、紛れもない狂気なのである。

    そして、それが反社会的であればあるほど、孤独であればあるほど、その魂は美しく輝くことになる。
    このことを、『カールじいさんの空飛ぶ家』の監督・原案・脚本を担当したピート・ドクターは、何も分かっていない。
    そしてそれこそが、現代最高の監督のひとりであるブラッド・バードと、ピート・ドクターの決定的な差になってもいるのだ。
    『レミーのおいしいレストラン』が、『アイアン・ジャイアント』が、何故ここまでの傑作になり得ているかを考えて欲しい。
    宮崎駿が評価する上海アニメーション、『ナーザの大暴れ』において、愛する者のために自らの首を剣で掻き切るナーザに、心揺さぶられるのは何故なのかを考えて欲しい。

    これも宮崎駿の信奉している、ロシアのアニメーション映画『雪の女王』の主人公、ゲルダの話をしたい。
    氷の世界に住む雪の女王は、人間界の少年カイを見そめて、氷の城に幽閉する。
    カイを愛する少女ゲルダは、あらゆる艱難辛苦を乗り越え、ボロボロになりながら、裸足で氷雪を踏みしめ、氷の城に到達する。
    ゲルダはカイを呼ぶ。
    「カーイ!」
    その声は氷の壁に反響し、城全体に響き渡ってゆく。
    「カーイ!」「カーイ!」「カーイ!」「カーイ!」「カーイ!」…
    氷の壁に声がぶつかる度に、そのかわいらしい声は、野太く、低く変容していく。
    これは素晴らしい演出だ。かわいらしい少女は、壁にぶつかるごとに、強い情念を持った大人の女になっていくのだ。
    そしてその声は、最終的に雪の女王の声と酷似してしまう。ゲルダの情念とは、雪の女王のそれと、結局は同じものだったのだ。
    そこに、社会的な正義感は無い。ゲルダと女王の勝負は、女と女のエゴのぶつかり合いでしかないことが暴露されるシーンである。
    しかし、だからこそ、その魂は何よりも強く輝き、私達を共感させ、真に感動させることにもなるのではないか。

    私達が日々体験している、退屈な社会的規範の範疇の外に出なければいけない。何故なら、そこにしか真のカタルシスは存在し得ないからだ。
    ということで、論理的には、カールじいさんは、犬、サル、キジをショットガンで吹っ飛ばして、先に進むべきなのである。

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    今さらながら、新年のごあいさつをしたいと思います。おめでとうございます。
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    今年は、まず鑑賞してたけれどなかなか時間が無く書けなかった、『アバター』と『カールじいさんの空飛ぶ家』を血祭りにあげ、ポン・ジュノ監督の『母なる証明』を、これでもかと褒めちぎる予定です。
    お楽しみに。

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